日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年6月6日 説教:森田恭一郎牧師

「あの愛を忘れない」

詩編  七九・八~九
ヘブライ 五・一一~六・一二

新約聖書は、神の御子イエス・キリストと私たち人間、各々の逆転現象を記しています。

御子については、御子であるにもかかわらず(ヘブライ五・八)という逆説の言い方がありました。神の御子、救い主であるのにもかかわらず、キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度の故に聞き入れられました(ヘブライ五・七)。御子ともあろうお方が、激しい叫び声をあげられる。涙を流される、死からの救いを求めて祈りと願いをささげる。大変な逆転です。

私たち人間については、しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても(ヘブライ六・九)。口語訳聖書では、こうは言うもののと訳されておりました。これも逆転現象を語る言い方です。「こうは言うものの」。これは、その前の段階があって、逆転して、その後の段階がある訳です。今日はこの逆転現象を味わいたいと思います。

 

私たち人間については、と申しましたが、ヘブライ書は、誰に向かって語りかけているのかと言いますと、教会員です。前の段階をこう語ります。なかなか厳しいです。皆さんがもし、こう言われたらどうお思いになるかを考えながら聴いて下さい。このことについて(=キリストの大祭司としての務めのことでしょう)は、話すことがたくさんあるのですが、あなた方の耳が鈍くなっているので、容易に説明出来ません。実際、あなた方は今ではもう教師となっているはずなのに、再び誰かに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者は誰でも、幼子ですから、義の言葉を理解出来ません(ヘブライ五・一一~一三)。あなた方は、説教を聴いても、聴くべきことを聞き取っていない。初心者のままではないか。皆さんはどう思われましたか。

ヘブライ書はここで、教会員をとっちめようとしているのではありません。むしろ、反発して「そんなことはない、誤解も甚だしい。私たちは、乳飲み子や幼い子どもなんかではない」と言い返してくる位のことを期待しています。このように言い返してくることを願いながら、あなた方がそう言うのならよろしい、それならば、と話を進めています。だから私たちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。神がお許しになるなら、そうすることにしましょう(ヘブライ六・一~三)と言葉を続ける訳です。あなた方は初歩の段階に留まらないで成熟を目指して進みましょう。正直な所、戸惑います。自分の信仰は成熟した信仰です、なんてなかなか言えないからです。               それでは、何を以て成熟と言うのか? 善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人(ヘブライ五・一四)という言い方もしています。求道中や受洗時に学んだこと、知識として得たことが、洗礼を受けキリスト教徒として歩んで行く経験の中で、これがキリストの恵みだと生活の感覚として分かって来る、身に付いて来るということでしょう。苦難の続く中でも信仰を捨てない。あるいは躓きかねないような教会の現実の中でもそれでも教会から離れない。清濁併せ呑むことの出来るような懐の大きさ、と言うと少々語弊があるかもしれませんが、人間の罪の現実に耐えられる成熟がある。「成熟など、自分に出来るのか」という思いが抜けないのが正直な所ですが、だからと言って成熟するなんて無理だ、信仰者として生きられないと開き直ったりするのではなく、百%は無理だとしても成熟への方向を目指そう、ヘブライ書は私たちの背中を押してくれています。

 

それにしても、また厳しいことを言っています。一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神の素晴らしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることは出来ません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです(ヘブライ六・四~六)。まさか自分が改めてキリストを十字架に付けてキリストを侮辱するなんて、と思ったりしますが⋯。真面目にしっかりと出来る人ほど、気が付かない内に心の中で思っているかもしれない。 自分はしっかりと生きている、社会人としてもしっかりやっている。その分、キリストの助けは要らない、と十字架に付けてしまっている。

 

ペトロの事を思い起こします。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マルコ一四・三一)と自信を込めて言いました。この時ペトロは、救われる側ではなく救う側に立っていました。自分のための救い主キリストは要らなかった。そうやってキリストを十字架につける側にいた。ペトロ自身は気付いていない。

もちろん、この後、三度「知らない」と言ってキリストを否んだ。キリストなんか要らない、と十字架に付けたようなものです。そして鶏が鳴いた。さすがにこの時、ペトロは気が付いた。自分がこんなことになるなんて、自分に裏切られた。

ヘブライ書は厳しく言い続けます。土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます(ヘブライ六・七~八)。思えば当たり前のことを言っているだけです。ペトロは、恵みの雨を主イエスから戴いているのに、自分が生えさせているのは茨やあざみだけだと気付いた。

ここで、私たち人間の側からの願いを言うなら、この詩編の御言葉が代わって言ってくれています。どうか、私たちの昔の悪に御心を留めず、御憐れみを速やかに差し向けて下さい。私たちは弱り果てました。私たちの救いの神よ、私たちを助けて、あなたの御名の栄光を輝かせて下さい。御名のために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦し下さい(詩編七九・八~九)。赦しを求める悔い改めの言葉です。

 

さあ、ここで、神様の側から与えられる、私たち罪人の逆転現象です。ついには焼かれてしまうはずの私たち。しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、私たちはあなた方について、もっと良いこと、救いに関わることがあると確信しています。神は不義な方ではないので、あなた方の働きや、あなた方が聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません(ヘブライ六・九~一〇)。焼かれてしまわないで、祝福を受ける。神様は私たちが示した愛の営みを覚えていて下さる。何という逆転現象でしょう!

ただ、ここも要注意です。神はお忘れになることはありません。でも、それを私たちが忘れずに「どうだ、自分はすごいだろう。少しは立派なんだぞ」と自分に対して誇るとしたら。まして神様に向かって自信ありげに誇るとしたら変ですよ。ここでもう一つ、あの譬え話を思い起こします。「主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」(マタイ二五・四四)。今、キリストの御前で、あの時の自分の功績を誇らずにはいられないとしたら、キリストが救って下さる恵みを忘れているからです。これでは先の自信満々のペトロと同じです。愛は、自分を誇るために行うのではない。「聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛」(ヘブライ六・一〇)とあります。ここに自分の生きて来た人生の歴史の積み重ね、多くの人たちと関わってきた事実があります。それはその都度、相手のことを思って仕えてきた営みです。そしてそれは自分の名、自分の名誉、自分が誉められるためではなく神の名のためにしているに過ぎない。  あなた方の「神の名のために示したあの愛」の営みの中に、百%でなくても成熟の一端が既にあるではないか、とヘブライ書は祝福してくれている。

 

ヘブライ書は成熟への方向性を失わないようにと続けて語ります。私たちは、あなた方各々が最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなた方が怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となって欲しいのです(ヘブライ六・一一~一二)。

教会に、私たちが思い起こして見倣う信仰の先達がおられるということは幸いなことです。洗礼を受ける時も、その後の信仰の営みに於いても、あのような信仰者になりたいと思えることは幸いです。その人たちも、逆転現象の恵みの中に希望を確信しながら歩まれた方たちです。