創世記1章1~5節
テサロニケの信徒への手紙一5章1節~6節
主の祈りで私たちは「御国を来らせ給え」と祈るようにと教えられています。福音書にも、主イエスが父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来る、神の国が力に溢れて現れる、とあります。
テサロニケの信徒たちは、自分たちが生きている間に、その時が来るという事を信じていました。それだけにその御国が来る前に信徒たちが亡くなるという事態に戸惑いと不安を持っていた。そこでパウロは、主イエスが甦られたように、亡くなった者も甦らされて自分たちと一緒に主イエスにお目にかかることが出来ると、彼らを慰めたのであります。でもある問いが消えなかった。そうであるにしても、主イエスはいつ再臨下さるのか、御国はいつ来るのかと。
そこでパウロは応えて言います。「兄弟たち、その時と時期についてあなた方には書き記す必要はありません」。主イエスもこう語っております。マルコ13・32「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である」。このことを知っておくことは大事です。何故なら、誤った信仰理解を持つ者たちが「何年、何月のいついつに、終わりの時が来る。それまでに信じない者は滅ぼされる」と脅かすように、またせかすようにして伝道をするからであります。彼らの言うことが偽りであることは、この聖書箇書と照らし合すだけで明らかです。私たちは、そのような偽りに振り回されることなく落ち着いた生活をし、外部の人たちに対しては品位を以て歩めばいいのです。
その上で、今日の聖書は2節以下の所で「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなた方自身よく知っているからです。人々が『無事だ。安全だ』と言っているその矢先に、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません」。この箇所も読みようによっては脅かしのような口調であまりいい言い方ではないです。ここでパウロが言いたいことは「主の日は必ず来る」ということです。
「盗人」が登場します。今日の日本社会の常識と異なって、当時は盗人が来るというのは当たり前であった。必ず来た。そして盗人は予告して来る訳ではないですから、突然来る。突然必ず来る。また妊婦の話が出てきます。今日、無痛分娩というのもありますが、常識的に考えて、出産を前に必ず陣痛が起こる、産みの苦しみがある。それと同じで、決してそれから逃れられないということを言っているだけのことです。
それから「人々が『無事だ。安全だ』と言っているその矢先に」とありますが、当時のローマ帝国の治世下では、それまでの時代に比べれば、ローマの平和という言葉が残る位、ある意味で平和だった。それまでは敵が攻めて来て国が亡びる、居住地が荒らされるという危険は絶えずあった。今日でも、戦争や起こり内戦が続きテロが頻発すれば『無事だ。安全だ』と言えるというのは本当に幸いなことです。でも、それで当時のローマは皇帝を神として拝めという事になった。でもパウロから見れば、歴史が永遠になることはない。このローマだっていずれは破滅が来る、滅びるのは歴史の常です。
ここでパウロは、何だか脅かすような口ぶりで言っているようですが、だからあなた方も滅びるということを言いたいのではない。言いたいのは4節。「しかし、兄弟たち、あなた方は暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなた方を襲うことはないのです」。暗闇の中にいないのなら、当然、暗い夜にやって来る盗人が突然あなた方を襲うことはない訳です。
それでは何故、あなた方は暗闇の中にいないのか。
5節。「あなた方は全て光の子、昼の子だからです」。
「あなた方は全て光の子、昼の子です」・・・。これを聞いてテサロニケの信徒たちはどう思ったでしょうね? 光の子って言われても、相変わらず弱さもあるし誘惑には負けるし罪はあるし、闇の子のような部分はあるよね…、昼の子って言われたって夜も来るじゃんね…。皆さんはどうですか? 「ハイ、私は光の子、昼の子です」と言えますか? 言えるとしたら、どうして言えますか?
パウロは言います。「私たちは、夜にも暗闇にも属していません」。
夜が来ても暗闇が覆ってきても、夜も昼のように輝いていると言いましょうか、直訳は「私たちは夜でも闇でもない」という断言的な言い切っている言い方です。まるで宣言文みたいな文章です。パウロにしてみれば「私たちは夜でも闇でもない」。だから「あなた方は全て光の子、昼の子なのである」。これも宣言文です。人間の弱さだとか罪深さだとか、そんなものは全て吹っ飛ばしていますね。
それで6節「従って、他の人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」。・・・私など、しょっちゅう居眠りしてしまい目を覚ましているというのは難しいので困ったもののですが・・・。目を覚ましているとはどういうことか。
そこで先週読みました箇所をもう一度。マタイ25章の「十人の乙女」の譬え(p.49)。13節に「だから、目を覚ましていなさい。あなた方は、その日、その時を知らないのだから」。今日は最初から。 「そこで、天の国は次のように譬えられる。十人の乙女が夫々、灯火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな乙女たちは、燈火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢い乙女たちは、夫々のと一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、乙女たちは皆起きて、夫々のを整えた。愚かな乙女たちは、賢い乙女たちに言った。『油を分けて下さい。私たちのは消えそうです』。賢い乙女たちは答えた。『分けてあげる程はありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい』。愚かな乙女たちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意の出来ている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかの乙女たちも来て、『御主人様、御主人様、開けて下さい』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。私はお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなた方は、その日、その時を知らないのだから」。
前回は、26章で主イエスが譬え話を終えて受難予告と関係づけている所から、「主人が、『はっきり言っておく。私はお前たちを知らない』と答えて」婚宴の席に入れてもらえなかった裁きを、主イエスが十字架で負って下さったのだという話をしました。
今日は「目を覚ましていなさい」のことについて考えたい訳です。十人の乙女たちは5節「ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった」。賢い乙女たちも含めて皆眠気がさして眠り込んだのですね。「目を覚ましていなさい」というのは眠ってはいけないとうことではない。眠る者は夜眠るのです。
それでは何が賢くて目を覚まし、何が愚かで眠ってしまったか、それが問題です。3節に「愚かな乙女たちは、燈火は持っていたが、油の用意をしていなかった」とあるので、どうしてもこの3節の一文に引きづられてしまうのですが、ここで彼女たちに求められたのは、6節「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」。
彼女たちが求められているのは「花婿だ。迎えに出なさい」ということです。ですから、乙女たちの賢さと愚かさの分かれ目は、迎えに出たか出なかったかです。賢い乙女たちは出て行って花婿を迎えたのに、愚かな処女たちは、油を買うために店に出て行き花婿を迎えなかった。「灯火が消えそうです」ということにこだわってしまった。ここに愚かさがある。別の言い方をしますと、花婿の喜びを共有しなかった。皆さん考えてみて下さい、花婿の立場に立って。
花婿が花嫁と出会うために婚宴の席に向かっている。すると花嫁の友人たちが「ようこそいらっしゃいました、お目出とうございます。こちらです」と出迎え案内する。花婿は「どうも有難う」と喜びを以て応えます。その時に灯を持っていない乙女たちがいたとしても、そのことにどれだけ気が取られるでしょうか。婚宴の喜びに包まれ満たされているんです。その喜びを一緒に喜ぶことが、処女たちの最大の務めです。最大の務めと言っても、作り笑いをすることではない。花婿の喜びに自分たちも満たされればいい。ところが愚かな乙女たちは、この喜びよりも油の不足に捉われてしまった。店に出向いて、花婿を迎えに出なかった。どこに目を覚ましているのか。
もう一か所、ルカ21・34以下(p.152)「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなた方を襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々全てに襲いかかるからである。しかし、あなた方は、起ころうとしているこれら全てのことから逃れて、人の子の前に立つことが出来るように、いつも目を覚まして祈りなさい」。 起ころうとしているこれら全てのことから逃れる道が一つある。どこへ? それは「人の子の前に立つこと」です。こう言うことも出来るかもしれない。主の日は全ての人に及ぶ。そこからは逃れられない。だから自分の罪や他のあらゆる事からは逃れて、キリストの前に立つように目を覚ます。「花婿を迎えに出なさい」。いや主の日にはキリストがグイッと引き上げて下さる。主の前に立つ事からは誰も逃れられない。だから私たちは、花婿を出迎えに出て、花婿と一緒に喜ぶ。それしかないではありませんか。
この時私たちは、全て光の子、昼の子です。どれ程夜遅くなって暗闇が増したとしても、人の子、花婿、すなわち主イエス・キリストの前に立つとき、その喜びに与って、こちらも喜びに溢れてくる。ちょうど、満月が太陽に照らされて、月自身は光を出すことは出来なくても、太陽のひかりを反射して、地球の暗闇の地上を明るく照らすのと同じようなものです。
パウロは宣言するようにして「私たちは、夜にも暗闇にも属していません」と言い切りました。それはパウロ自身が輝いているからではありません。キリストの恵みの光に全身包まれるからです。それなら同じように「あなた方も全て光の子、昼の子です」。それで、私たちは、他の人々のように眠っていないで、キリストの前に目を覚ましていることが出来るのです。