創世記 一八・一~五
ヘブライ一三・一~六
今日の主題は執り成しの祈りです。特に今は、ウクライナのことを念頭に、平和を祈りましょう。
ただ、今日のヘブライ書の箇所には祈りということは書かれていません。敢えて言えば、執り成しの業、働きです。愛することです。いつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。捕らわれている人たちを思いやり、虐待されている人たちのことを思いやりなさい……。
避難民となってしまったウクライナの人たちのことを思いやりたい。四節以下には結婚のことと金銭のことの記述があります。結婚は全ての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。夫婦も家族も別れ離れ、着の身着のまま戦火を逃れて来た人たちにとっては、そのままの、納得するしかない言葉です。
このような中、思いやりの気持ちを込めて、ヴォランティアに参加する人たちも多い。反戦のデモも世界中に広がっている。こういう倫理に関わる聖書箇所を読みますと、教会は、キリスト教徒としての自分は、どれだけのことが出来ているかと問われる思いが致します。そのような中で、少なくとも教会の私たちが出来ること、それは執り成しの祈りです。祈りは聞かれると信じて祈ることです。祈りを以て支える。これも愛の働きです。そして祈りから愛の業へと繋がっていく。
今日のヘブライ書の聖句で改めて心惹かれた言葉は、思いやる。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい
(ヘブライ一三・三)。思い起こす、想起するというのが元の意味ですが、改めて美しい言葉だと思います。思いやるには、自分も一緒に捕らわれているつもりになれば、牢に捕らわれている人たちを思いやることが出来る。また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちの心身の辛さを慮って思いやることが出来る……。
報道番組の中で、避難民の言葉の紹介がありました。「プーチンに伝えてくれ。私たちのこの悲惨な悲しみを。同じ人間なら分かるだろ」。
先日ある方がこう言われました。「聖書に喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさいとありますね、頭で分かっていたけれども、自分が病気を患って、やっと、相手の辛さも身に染みて分かったような気がする」。その方の何か優しい気持ちが伝わってきた思いが致しました。自分も経験して初めて分かる。頭だけで分かっていても、本当に身に染みて思いを馳せることは難しい。
ヘブライ書の記者は、もしかすると、自分自身が牢に捕らわれ、虐待された経験があるのかもしれない。少なくとも、地域や教会の身近な人たちに経験者がいて、その辛さをよくよく聴いてきた人なのかも知れない。だから思いやれる……。
そこで改めて、思いやるという言葉が元は、思い起こす、想起するという言葉であることに注意を向けたい。実際に経験していなくても、敢えて思い起こし、敢えて想像してみる。赤ん坊が泣いている。抱っこしてあやしてみる。なんで泣いているのだろう。お腹が減った? でもさっきお乳飲んだばかり。おむつが汚れた? でもさっき替えたばかり。じゃぁ、なんで泣いているの? 思い至らないことも多いのですが、それでも目の前の赤ちゃんの思いに思いを重ねてみようとする。
ヘブライ書は思いやる原点について、それは自分も同じ経験したことにあるとは言っていないのではないか。もちろん、経験していれば、尚更思いやれるでしょう。それは確かです。では思いやりの原点は何であるのかと言いますと、二節に、旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。ここも、忘れないこと。旅人もてなすことを忘れないのですが、何故もてなすのかと言いますと、その旅人が天使たちかもしれないからです。言い方を変えますと、その旅人も神様に愛されている存在だ、ということを忘れない。思い起こす。だからもてなす気持ちになる。
そしてヘブライ書が私たちに示していることは、旅人や隣人に対する御言葉を思い起こすことです。御言葉を自由に引用しています。 神御自身、「私は、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」(申命記三一・六)と言われました。だから、私たちは、はばからずに次のように言うことができます。「主は私の助け手。私は恐れない。人は私に何が出来るだろう」(詩編一一八・六)。思いやる原点としてこの御言葉がある。そこから祈りも生まれる。「あなたに神様はこう約束しておられる、こう言っておられる。だからその御言葉を以て、私もあなたを思い起こして祈ります」。執り成しの祈りとは、その相手を思い起こして御言葉を贈ることです。
私たちは、御言葉と共に思い起こします。「主はあなたから決して離れません。あなたの助け手です。人はあなたに何が出来るだろう」と。『祈りへの道』という本の「とりなしの祈り」の項目の所で著者の加藤常昭牧師がこう言っておられます。ヨーロッパのある教会の礼拝、献金を集めて献金当番の人が前に並ぶ。若い人から高齢者までいて、順に祈り始めた。全部執り成しの祈りだった。夫々の思いを自由に祈った。教会の病の中にある人のために、というのはもちろんのこと、当時の時事問題になっていた、飢餓地域の人たちのため、人種差別克服のため、東西冷静の中で苦しい思いをしている人たちのため、犯罪を犯して逮捕された人たちのために……。そう紹介されて、加藤牧師は問いかけます。
「皆さんは、自分の祈りの中で、今刑務所に入れられている人たちのために祈ったことがあるでしょうか。社会の底辺にあり、忘れられているような人たちのために祈ったことがあるでしょうか。教会の外にも神の恵みを必要とする人々が沢山います。その人々が気付かない間にも、その人自身に代わって祈る。このような広がりを持った祈りをヨーロッパの教会は昔から続けてきた。そうやって祈り続ける心と、献身している人たち(ヴォランティアも含めて)の愛の労苦の姿勢は、結びついているのだろう」。
そこで紹介された献金当番の人たちの祈り、自分が刑務所に入ったことがある訳ではないでしょう。でも思い起こして祈る。そこに愛が芽生える。
キリストはクリスマスに人としてこの世に来られ、全ての点で兄弟たちと同じようになって下さいました。主御自身、試練を受けて苦しまれ(ヘブライ二・一七~)たのでした。経験されていますから、本当に心から同情も思いやることもお出来になります。そして全てを十字架で負って下さいました。
聖餐式に望みます。私たちにキリストを思い起こさせてくれるのが礼拝であり、聖餐式です。私たちに出来るのは思い起こすだけです。でもキリストに委ねて、精一杯思い起こして祈ります。 そこで皆さん、今から、ウクライナのことを念頭に、平和を求めて祈りましょう、原発の安全を願って祈ろう、家を追われた人のために祈ろう。この戦争のために負傷を負った人、亡くなった人、その家族のために祈ろう。パラリンピックの開会式に笑顔無く入場せざるを得ないウクライナの選手たちのために祈ろう。そして敢えて加えて、意に反して戦争に加担するロシア兵やロシアの人たちのためにも祈ろう……。もし思い及ぶなら、ウクライナのことだけでなく、祈りましょう。