日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年5月2日 説教:森田恭一郎牧師

「あずかろう、神の安息、今日の内」

創世記 一・三一~二・三
ヘブライ  四・一~一一

今日のヘブライ書は、福音をこう表現します。「神の安息に与る(あずかる)」。神様がこの救いの物語を描いておられます。

神様はこの物語のためにまず第一に、歴史の前の段階で愛の決意をなさいました。愛する対象として天地万物を造ろうという愛の計画です。歴史の前の永遠の次元の出来事です。

第二にここから歴史の次元です。その始まりは天地創造です。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神は全ての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された(創世記二・一~三)。世界とその歴史は「極めて良かった」これで良しと神様が休まれた安息から始まります。神様の祝福と聖別を受けることから世界と歴史は始まった。

 

これを人間の側から見ますと、歴史の舞台で「神様の安息に与ること」が私たち人間の課題になります。第三は旧約時代。神様はイスラエルの民を聖別してお選びになり彼らを安息に与る者となさいました。救いの出来事を起こし、モーセを通し神の言葉を告げました。奴隷状態にあった人たちを紅海の奇跡を以て救い出し、神の安息に与らせて下さいました。

そのように彼らは、救いの御業を見、神の言葉を聞いたのに、荒れ野で試練に遭うと「エジプトの方が良かった」と心を頑なにし、神の安息を受け入れなかった。それどころかこの試練の中で「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」(出エジプト記一七・七)と神様を試したのでした。神様はモーセだけでなくその後も預言者たちを遣わし、神の言葉を聞かせます。詩編も、今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。「あの日、荒れ野でしたように心を頑にしてはならない」(詩編九五・七~八)と訴えかけますが、人々は、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう(ヘブライ三・一二)のでした。

その結末は、そのため私は怒って誓った。「彼らを決して私の安息に与らせはしない」(ヘブライ三・一一、四・三)。旧約聖書が明らかにするのは、人間は救い主に救ってもらうしかない罪の深さです。この結末は大変厳しい、救いのない結末です。

 

でもこれで神様は安息の物語を打ち切りにはなさいませんでした。第四は、救いの物語は新約時代。まず救い主、イエス・キリストが歴史の中に遣わされて、安息の打ち切りを十字架で負って下さいました。ヘブライ書は興味深い表現で新約時代の特色を語っています。神の安息に与る約束がまだ続いている(ヘブライ四・一)。約束が続いているのは新約時代の今のことです。第五に約束が成就するのは、終末の完成においてです。約束と完成が絡み合うような仕方で、安息についての記述が続きます。信じた私たちは、この安息に与ることが出来るのです(同三節)。この安息に与るはずの人々がまだ残っている(同六節)。安息日の休みが神の民に残されているのです(同九節)。何故なら、神の安息に与った者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです(同一〇節)。第四に戻り、創世記の表現で言うなら、六日目から七日目に向かって生きている。

 

それで新約時代はヘブライ書の教会、また私たちが生きている今の時代です。旧約の時代同様に課題があります。苦難に直面してまみえる困難の課題です。旧約の民は、神の安息に与る約束の言葉を聞いていなかったのではない、聞いている。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした(同二節)。旧約の民に役に立たなかった理由は、その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結びつかなかったため(同二節)とヘブライ書は判断しています。そしてヘブライ書の教会もこの課題に直面している。見える現実に巻き込まれます。それは今の私たちも同じです。

教会の礼拝で神の言葉を聞いているのに、その神の言葉が地上の困難に太刀打ち出来る言葉になっていない。丁度、ペトロが三度主イエスを知らないと否んだのと同じです。太刀打ち出来るようにはペトロも聞いていなかった。信仰によって主イエスの言葉が日々の自分と結びついていない。

だからヘブライ書は呼びかけています。以前にも記していました。だから、私たちは聞いたことに一層注意を払わねばなりません(ヘブライ二・一)。そして、取り残されないように気をつけましょう(ヘブライ四・一参照)。安息に与るように努力しよう(ヘブライ四・一一参照)。

神様は安息の休みを残して下さいました。旧約における「安息に与らせはしない」ことを、キリストが十字架で負って下さいました。あのペトロ、鶏の声が聞こえて来た時、主の眼差しの下で主の言葉を思い出して泣いた(ルカ二二・六〇~)。思い出せて良かった。キリストの十字架のお蔭で、この安息に与るはずの人々がまだ残っている、と思い出し、それでペトロは立ち返ることが出来た。裏切りの中で主の眼差しと言葉故に安息を知った。ヘブライ書は改めて、これを福音として語ります。

 

先日、新聞に本の紹介記事がありました。題名は『養老先生、病院へ行く』。病院嫌いだった養老孟司が病院で治療を受けてその恩恵を被った。それで新聞記事の表題は「医療との距離は変わったか」。病気になったら病院へ行く。そうでなければ行かない。医療や病院との関係をどう考えるか、興味をそそる題です。ここから、神の安息の約束、それを告げる福音の言葉と私たちの距離はどの程度のものか、を考えさせられました。

苦しい時の神頼み、日頃は教会に行かないのに困難にぶつかったら教会に行く。苦しい時の神離れ、日頃教会に行っているのに困難にぶつかると神なんかいるのかと教会に行かなくなる。どちらもあり得ることです。先程の本の中に「ヘルスリテラシー」という言葉が出てきました。「健康や医療に関する情報を正確に理解し活用できる能力」のことだそうです。日本人はそれが低い。例えば、がん検診の受診率が低いのはヘルスリテラシーが低い事の現われという訳です。

この用語を借りますと、日本人の宗教リテラシーはどの位だろうか。初詣と葬儀の時だけ神社仏閣に行く。日頃の生活では宗教の必要性を感じていない。それなら教会の私たちの「神の安息に関するリテラシー、福音リテラシー」はどうだろうか。神の安息、福音との距離はどの位だろうか。願わくは、神の安息に与る約束の情報を正確に理解し、困難があってもなくても、安息の中に安心して生きていく能力がある。私たちはこうでありたい。そのために、聞いた福音に一層注意を払い、取り残されないように、心を頑なにすることなく、安息に与る方向を見失わないようにしたい。

 

今、教会はある課題を負っています。感染症拡大の下、伝道しにくくなっている。教会に来て下さいと言えないのですから。そしてこれは教会員に対しても同じです。先週、一階入り口の所に「感染症に罹らない、感染症をうつさない」という表題の呼びかけを張り出しました。その中に「礼拝出席については、勤務や健康状態に合わせて各自ご配慮を」と記しました。今日も、うつさないために他の人を配慮して礼拝出席を控える方も多いと思います。隣人愛の現われと思い感謝します。ただ礼拝出席する方と控える方との間に、溝が生じないようにする必要があります。私たちは礼拝に集い聖餐に与って一つの群れ、共同体になるのに、それが出来ない。共に礼拝の恵みに与れるようにと配信等致しますが、出席を控えられる方は、どのようなお気持ちで配信をご覧になり、あるいは週報と説教原稿を手にしておられるのでしょうか。私たちは互いを覚えて執り成しの祈りと連絡を取り合うことを忘れないようにしたいものです。

 

ヘブライ書は、努力しようと呼びかけます。救われるための努力ではありません。私たちはキリストの恵みによって救われています。この努力は、主の恵みから取り残されないための努力、教会が共に安息に与るための努力、バラバラにならないための努力です。この努力という言葉、パウロは語ります。愛を以て互いに忍耐し、平和の絆で結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい(エフェソ四・二~三)。一致のための努力です。

そして、私たちの福音リテラシーが低くならないようにする努力です。ペトロはあの時、主の言葉を思い出すように導かれた。ペテロは語ります。だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように一層努めなさい。私はいつも、これらのことをあなた方に思い出させたいのです(Ⅱペトロ一・一〇、一二)。

これから聖餐です。キリストが十字架故に私たちを安息に与らせて下さる事を思い起こします。