日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年11月8日 説教:森田恭一郎牧師

「『人の子よ、帰れ』と」

詩編九〇・一~六
ヤコブ四・一三~一七

本日は、召天者記念の礼拝をささげます。皆様とご一緒に礼拝をささげることが出来ます事を幸いに思います。

ヤコブ書を順々に読んで参りました。今日は、四章一三節以下の箇所から御言葉を味わいます。よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなた方には自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなた方は、僅かの間現れて、やがて消えて行く霧に過ぎません。これからの人生、たとえどれ程お金儲け出来たとしても、明日、死んでしまったら、それっきりです。私たちの存在は、やがて消えていく霧。

旧約聖書の詩編も、千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます(詩編九〇・四~六)。こちらは、私たちは、夕べにはしおれ枯れて行く草のよう。霧であれ草であれ、これらの箇所から私たちの人生の儚さを思わずにはいられません。諸行無常と言いましょうか、日本人には馴染みやすい感覚です。

しかし、この詩篇はここに先立って、神様は儚いことはない、どっしりとした存在だということを思い起こしています。主よ、あなたは代々に私たちの宿るところ。山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神(同九〇・一~二)。この神が、儚い私たちをしっかりと受け取って下さる。このことを明らかにしています。

あなたは人を塵に返し…、この神が儚い私たちを塵に返し、地上の人生を終わらせます。そして「人の子よ、帰れ」と仰せになります(同九〇・三)。「帰れ」、どこに帰るのでしょう。もちろん、神様の御許に、です。自分の帰る場所がある、今日は、この事について思いを深めたいと思います。

 

礼拝の後には場所を移しまして、教会墓地にて墓前礼拝をささげます。その時に配布します冊子に、納骨された方のお名前を掲載しています。その多くは私の存じ上げない方ばかりですが、お一人おひとりが各々の人生を歩まれました。長生きされた方もいれば、若くして、更には幼くして亡くなられた方もおられます。また名簿には載っていませんが、流産や死産の赤ちゃんもいるでしょう。人生の終わりの迎え方も、天寿を全うされた方もいれば、病を得て亡くなられた方、事故に遭って亡くなられた方、自ら命を絶たれた方もおられます。

どのような人生を歩まれたとしても、また人生の長短がどれ程であるとしても、如何なる人生の終わりを迎えたにせよ、私たちは次の事を確信します。そのお一人おひとりを、主なる神様は「人の子よ、帰れ」と仰せになりご自分の御許へと迎えて下さるということ。これを信じて故人を天に送り、またいずれ自分もこれを信じて安心して死んでよいのだということ。これを確信します。

 

そして、私たちは地上の人生を歩みます。ヤコブは語ります。むしろ、あなた方は、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです(ヤコブ四・一五)。夜、床に就くとき一日守られたことを感謝し、朝目覚めたとき今日も自分の歩みに御心が成りますようにと願う。神様への感謝と願い、また御免なさいの思いも織り交ぜながら、生き永らえてあの事、この事をしながら歩んで行く。

 

ここに一つの詩=ポエムをご紹介したいと思います。先日、ある講義で聞いた詩です。作者はノーマ・コネット・マレックという女性です。十歳の息子が池で水死してしまって書き残した詩とのこと。題は「最後だと分かっていたら」。

 

あなたが眠りにつくのを見るのが、最後だと分かっていたら、私は、もっとちゃんとカバーをかけて、神様にその魂を守って下さいと祈っただろう。

あなたがドアを出て行くのを見るのが、最後だと分かっていたら、私は、あなたを抱きしめて、キスをして、そしてもう一度呼び寄せて抱きしただろう。

あなたが喜びに満ちた声を上げるのを聞くのが、最後だと分かっていたら、私はその一部始終をビデオに撮って毎日繰り返し見ただろう。

あなたは、私が言わなくても、分かっていてくれていたかもしれないけれど、最後だと分かっていたら、一言だけでもいい、「あなたを愛している」と私は伝えただろう。

確かにいつも明日はやって来る。でも、もしそれが私の勘違いで、今日で全てが終わるのだとしたら、私は今日、どんなにあなたを愛しているか伝えたい。

そして私たちは忘れないようにしたい。若い人にも、年老いた人にも、明日は誰にも約束されていないのだということを。愛する人を抱きしめられるのは今日が最後になるかもしれないことを。

明日来るのを待っているなら、今日でもいいはず。もし明日が来ないとしたら、あなたは今日を後悔するだろうから。微笑みや抱擁やキスをするための、ほんのちょっとの時間をどうして惜しんだのかと。

だから今日、あなたの大切な人たちをしっか

り抱きしめよう。そして、その人を愛している

ことを、いつでも、いつまでも大切な存在だと

いうことを、そっと伝えよう。

「ごめんね」「赦してね」やい、「有り難う」「気にしないで」を伝える時を持とう。そうすれば、もし明日が来ないとしても、あなたは今日を後悔しないだろうから。

 

この詩は、明日のことは分からない地上の人生の今日を生きることを語っています。明日が来ないとしてもという人生の厳然たる事実があります。でも、もう一つ、このことは確信していい。ヨハネの黙示録の言葉です。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る(黙示録二一・二四~二六)。地上の人生に対して天上の人生がある。天上の人生の明日は必ずある、このことは確信していい。天の都に迎えられるという、もう一つの信仰の事実です。そして今日、心に留まるのは、都の門は、一日中決して閉ざされない。通常、夜になったら閉じられる門ですが、キリストが都の明かりのようになって栄光を輝かしているので、門を閉める必要がない。それで、都の門は一日中閉ざされない。

その時、私たちは人生で経験した栄光と誉を携えて都に来ます。先ほどの詩の言葉で言えば、「ごめんね」「赦してね」や「有り難う」「気にしないで」を伝え合える。天の国はキリストの栄光の輝きの下で、それを遠慮なく言える所です。赦し合い、有難うと互いに伝え合う、これが出来る時、人の人生は栄光と誉に変わります。

 

今日お集まりのご遺族の皆様方、今は天におられる故人の方たちとどのような言葉を交わされますか。「ごめんね、赦してね」と皆さんが呼びかけるなら、その言葉に天から「気にしないで」と応えてくれるでしょう。あるいは「有り難う」でしょうか。更に反対に、天から「ご免ね」と聞こえてきて「気にしないでいいですよ」と皆さんはお応えになるのでしょう。あるいは言葉ではなく抱きしめる思いをお伝えするのでしょうか。

何故、そう伝え合うことが出来るのか。キリストが全ての罪を十字架で背負って下さったからです。赦されているから安心して謝ることが出来る。キリストの前では痛みも悲しみも損害を被った辛さもなくなっているから「気にしないで」と答えることが出来る。このように、その人と共に過ごした人生を再構成します。

人生がどのようなものであれ、私たちは、天に思いを向ける時、閉ざされることのない門の光景を思い浮かべます。人生の全て、悔いも申し訳なさも含めて、栄光と誉の内に再構成し、それを携え天の都の門をくぐります。そして先に召された方たちと共々に神様の栄光をたたえ賛美をささげます。今日の詩編は高らかに語ります。「私たちは主を賛美するために造られた」(詩編一〇二・一九参照)。