創世記六 ・一~八
ヘブライ一一・七
一〇月三一日は宗教改革記念日です。一五一七年のこの日は、M・ルターが、カトリック教会に公開質問状を掲げ、これによって宗教改革が始まったとされる日です。当時のカトリック教会が教会財政の必要から、これを買えば罪が赦され死んだ後の天国行きが保証されるという「贖宥状=免罪符」を発行していたことに対して、罪の償いをお金で買うような信仰のあり方について疑問を呈した訳です。贖宥状なんて聖書に根拠のないことを、聖職者たちが勝手な聖書解釈をして教会の正式な制度として打ち出して良いのか。ということで、宗教改革で明確になった三大原理があります。権威は教会の誤った伝統にではなく聖書にあるという「聖書のみ」、贖宥状や善行などによらず信仰によって義とされる「信仰義認」、信徒が聖書を解釈し罪の赦しを執り成し合う「全信徒祭司性(万人祭司)」、この三つです。
今日は、宗教改革で言われた信仰によって義とされる信仰義認とは区別して、ヘブライ書から「信仰によって生きる」ことを味わいます。念のため確認しておきますと、私たちが救われる、神の御前に義とされるのは、私たちの信仰によるのではなく、キリストの贖罪によります。それは、私たちの外側で起こった、私たちの善し悪しとは関係なく与えられる恵みですから、「恵みによって救われる」と言うことが出来ます。その上で、キリストの側のこの恵みの出来事を、私たちが受け取るのには信仰が必要です。これを日本語の言い方として「信仰によって救われる」という言い方が定着していますが「信仰を通して救われる」=「信仰を通して受けとめる」と理解すると良いでしょう。そしてこれとは区別して、私たちが信仰者として生きるのは「信仰によって生きる」。ヘブライ書はこちらのことを語っています。
ヘブライ書は「信仰」を繰り返し語ります。一一章をこう書き出していました。信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰の故に神に認められました。信仰によって、私たちはこの世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものから出来たのではないことが分かるのです(ヘブライ一一・一~三)。望んでいる事柄を確信する信仰の故に、旧約聖書の昔の信仰者たちが神に認められたとはどういうことなのか。そしてそこから私たちが目に見えていないことが分かるとはどういうことなのか、これがヘブライ書が一一章で語ろうとしていることです。
そして今日の箇所は、創世記のノアです。創世記の記事を見ますと、ノアと同時代であった人々の姿を語っています。地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている(創世記六・五~)。そしてこのような人々を御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「私は人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。私はこれらを造ったことを後悔する」…。このような中で、しかし。この逆説の接続詞は驚くべき不思議な「しかし」です。ノアだって、神様がお造りになったことを後悔なさった内の一人であるからです。であるのに、「しかし」! ノアは主の好意を得た。
ノアが主の好意を得た理由は何でしょうか。続いて、これはノアの物語である。この世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった(同九節)とあります。これを読みますと、ノアの側に好意を得た理由があったようにも思えます。神に従う無垢な人であったからノアは主の好意を得た。何かしらの信仰があったからそれで義と認められて、信仰によって主の好意を得たと考える……。
今ひとつの理解があります。この文章の順序通りに読んで得られる理解です。ノアは主の好意を得た。それでノアは神に従う無垢な人になった。この九節を、好意を得た理由ではなく、好意を得た結果として読みます。自分の側には理由のない「好意を得た」という不思議な恵みを「信仰を通して」受け取った結果、ノアは神に従う無垢な人となった。そのように生きたのはノアの「信仰によって」です。ノアは信仰によって生きた。
ノアはこの後、箱舟を造るように言われ、ノアは、全て神が命じられた通りに果たした(同二二節)。ノアの物語は地上の物語です。ここから黙想を広げますと、それは更に山の上の出来事であった。天候は晴れ晴れとして、およそ洪水が起こるほどの雨が降ってくるなんて考えられなかった。まして山の上です。山の上のこの風景が「見える事実」です。 さぁここで、神に従う無垢な人になるかどうか、信仰によって生きるかどうか、が問われてきます。ヘブライ書は語ります。信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り……(ヘブライ一一・七)。この時ノアは、恐れかしこみ「見えない事実」を確認したのです。神様がこんな私に好意を以て語りかけて下さった。それで結果としてこの神様に従おうと無垢になった。
一方、人々はと言いますと、人々というのは黙想を更に広げて登場してくる人々です。ノアは、箱舟を造るから手伝って欲しいと人々に呼びかけた。「手伝ってくれないか。一緒に箱舟に入ろう。洪水になるから」。それで人々の反応です。こんな山の上で箱舟を造るなんて、ノアは何と馬鹿げたことを言うのか。それでノアが一人で箱舟を造り始めると、馬鹿げたことやってるな。人々はそう思い、そしてノアの告げる、見えない神の言葉、そしてやがて来る見えない神の御業、その事柄を信じなかった。ノアがせっかく見えない事実の本質、神のご計画を告げ知らせてくれたのに、この時点で人々は、見えない事実を確認しない不信仰という罪に陥ります。ヘブライ書は語ります。ノアはその信仰によって世界を罪に定め……(同七節)。ノアはこのようにして好意を得たという恵みを受けて、そこから信仰によって生きました。 更にその結果、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました(同七節)。義を受け継ぐというのは、ノア自身が立派な義しい人になるということではありません。ただただ主の好意を得て、有り難いことに恵みによって救われた。この感謝を表す者となることです。ノアは主のために祭壇を築いた。そして全ての清い家畜と清い鳥の内から取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた(創世記八・二〇)。ノアの側に根拠はないのに、好意を得た。そのように選ばれた。それで何か客観的に偉くなったのでもなく、主観的に偉ぶるのでもない。ただただ感謝以外の何ものでもありません。洪水が引いた後、ノアがしたことは、感謝と様々な思いを込めて礼拝を献げることでした。
そして続く箇所でもう一点興味深いことがあります。それは、神様がもう二度と地を呪うことをしないのは、洪水を経験した人類が悔い改めて、その後、悪を離れ、見えない御心とご計画をいつも尋ね求める、罪を犯さない立派な人間になったから、というのではないということです。主は宥めの香りをかいで御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは幼いときから悪いのだ。私はこの度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」(創世記八・二一)。人間は結局、悪を離れることはなく、罪深い存在であり続ける。だから神様は憐れみを以て私たちの救いへと恵みを注ぎ続ける。「地の続く限り、種まきも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」(創世記八・二二)。私たちはいつまでも恵みによって救われます。救って戴くしかありません。
ノアの物語は神様の契約の話に及びます。「あなたたち並びにあなたたちと共にいる全ての生き物と、代々とこしえに私が立てる契約のしるしはこれである。すなわち、私は雲の中に私の虹を置く。これは私と大地の間に立てた契約のしるしとなる。私が地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、私は、私とあなたたち並びに全ての生き物、全て肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものを全てを滅ぼすことは決してない」(創世記九・一二~)。虹を見る度に、まず神様がこの契約をいつまでも心に留めて下さる。 そしてノアに対しても契約のしるしとして虹を置いて下さいました。神はノアに言われた。「これが、私と地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである」(創世記九・一七)。虹を見上げる度に、ノアは信仰を通して、神様の救いの契約を思い起こします。 私たちも、十字架のキリスト仰ぐ度に罪贖われて救われた恵みを思い起こし、復活のキリストを思い起こす度に希望の確かさを思い起こします。ここから、私たちも自らの地上の人生を信仰によって生きるのです。