日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年10月24日 説教:森田恭一郎牧師

「執り成すアベルの叫び」

創世記 四・一~一六
ヘブライ一一・四~五

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。ヘブライ書の信仰の定義です。そして昔の人たちは、この信仰の故に神に認められました。それなら、昔の人たちが信仰の故に神に認められて生きたとはどういうことであり、そこから私たちは何を学ぶのでしょうか。信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです(ヘブライ一一・一~三)。

ヘブライ書を記した当時の見える世界は、時に迫害や殉教の覚悟を迫られる異教社会でした。日本社会も、日本国憲法で信教の自由が保障されていますが、本質的に異教社会です。私たちはこの社会を生き、生活しなければなりません。信仰を与えられるというのは、単に死んだ後の天国行きの切符を手にすることではありません。それも大いなる希望ですが、その希望の信仰に支えられて今を生きなければならない。ヘブライ書は、異教社会を生きた旧約聖書に登場する信仰者たちの姿から、見えない事実を確認し、見えない神の言葉によって支えられた、信仰によって生きるということについて、具体的に学ぼうとする訳です。                         そこで最初に登場するのがアベルです。アダムとエバの二人の息子、弟がアベルです。二人が成人して、労働して得たものを神様に献げたのですが、主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかったという思いがけないことが起こります(創世記四・四~五)。ここに、地上の人生の課題が明らかになります。それは不条理です。          兄弟二人がそれぞれ献げ物を献げたのに、カインの献げ物を神様が受け取ってくれない。カインも精一杯働いて献げて、何も悪いことはしていないのに…。それで、カインは激しく怒って顔を伏せた。当然でしょう。              そして(途中飛ばしまして)、カインがしたことは、弟アベルを妬み、あいつさえいなければこうはならなかったと思ったのでしょうか、カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか」。カインは答えた。「知りません。私は弟の番人でしょうか」。カインはこのとき信仰に生きなかった。信仰によって生きたなら、神様にしらを切ることも弟を殺すこともなかった。自分の献げ物が顧みられなかったその見える事実に振り回されることはなかった。アダムとエバも同じです。神の言葉を信じる信仰によって生きたならば、蛇の誘惑の言葉に惑わされてしまうことはなかった。だからヘブライ書はこの三人を取り上げないでアベルから始める。

主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる」。弟アベルは何を叫んだのだろうか。創世記は叫びの内容については何も記してはいません。通常言われることは、正義を求め、物事を正し、殺人については応分の刑罰を神に訴えるというものです。今、お前(カイン)は呪われる者となった。この言葉から考えるなら、アベルはリヴェンジ=復讐の呪いを神に訴えたとも言えます。                             ヘブライ書はアベルについて黙想を広げました。信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています(ヘブライ一一・四)。アベルが信仰によってこそ語り、その語りから明らかになる、より優れた信仰によるをいけにえを献げた。この献げ物とは何か。              思えば、アベルも置かれた状況はカインと同じです。何も悪いことはしていないのに殺されるという不条理を被った。もしアベルが、カインを亡き者にしようと呪いの復讐を願ったのならカインと同じです。信仰によって語った事にはなりません…。信仰によって語った叫びは、執り成しです。カインを赦してやって下さいと彼の立ち直り、レジリエンス=回復を願った。キリストも十字架上でこう言われました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ二三・三四)。アベルは赦しの執り成しを叫んでキリストを証し、信仰によって語ったのです。                         さて次はエノクです。エノクは六十五歳になった時、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった(創世記五・二一~二四)。これだけです。   でもヘブライ書は、特にこの終わりの記事からエノクの信仰を黙想しています。 信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません(ヘブライ一一・五~六)。信仰によってエノクは神に喜ばれました。そしてそのようなエノクであったから、死を経験することなく天に移されたというのです。        どういう信仰によって喜ばれたのかと言うと、神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです(ヘブライ一一・六)。ここで信仰内容は二つ、神が存在しておられる、そして神はご自分を求める者に報いて下さる。この二点を信じる信仰です。この信仰によって神が喜んで下さる。そしてこの信仰の故に神に近づいていくことが出来る。                           ここで「報いる」について。元々は賃金を払う、労働に報いる意味合いの言葉です。賃金を払ってもらう雇い人という言葉にもなります。放蕩息子の譬え話(ルカ一五章)の中で、放蕩に身を持ち崩して一文無しになった弟は、その地方が飢饉になった時に「父の所では、あんなに大勢の雇い人に有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ」。そこで食べ物を求めて「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい」との思いを以て、家に戻ることにします。家に近づくと父が彼を見つけ迎えます。居なくなっていたのに見つかったと祝宴を始めます。弟は求めた通りにお腹を満たすことが出来ました。                         考えるべき点は、この弟の願いが適ったということが、ヘブライ書の語る求める者たちに報いてくださる方であるということでしょうか。そうではありません。ヘブライ書は、神は御自分を求める者たちにと語ります。父親は、父親として彼を息子として迎え入れた。賃金やパン以上のものを報いてくれた。父親は、息子に対して、食べ物を求める雇い人ではなく、父親を求める息子であることを願っています。弟は父親を求めねばなりません。息子はここにいるのは父親だからです。   先程、信仰の内容は二つとお話しましたが、二つは一体です。神が存在しておられることを信じるから、神が報いて下さることを求めるからです。エノクは、神ご自身の存在を求める求めに報いて応えて下さる神を信じた。そうやって神に近づいた信仰者であった。そしてその信仰を神も喜んで下さったのだと、ヘブライ書は黙想します。    このことをアベルに当てはめると、アベルも神の存在を信じて神に相応しく応えて下さる報いを求めています。アベルは不条理に遭遇して、だから神なんかいるものかと自分の思いが神の不在に至ったのではありません。不条理であっても神の存在を信じて赦しの執り成しを叫び続けます。                          終わりに確認したいことがあります。ヘブライ書の今日の箇所から登場する旧約の人たち、いわば信仰者列伝です。立派な人たちのように感じます。アベルは死んでからも語り、エノクは死を経験しないで天に移されたのですから、特別な人のようです。でも…、この人たちも、恐らくごく普通の人たちであった。弱さを持ち、壁にぶつかる。ただその時に、神の存在を信じ抜き、神を求めた。  礼拝後、壮年会と婦人会があります。今日は、信仰の証を伺います。日本という異教社会の中で、神に選ばれ信仰を与えられ、神に対して謙虚に生きる。その喜びもあり、また労苦もあるでしょう。この社会で、信仰をもって生きられるのか。壁にぶつかり、信仰を捨てたくもなる。        ヘブライ書は迫害や殉教があり棄教者も生じた中で、苦闘する信仰者を励ますべくこの書物を書いた。神に近づこう。エノクのように神と共に生きよう。見える現実を思うと信仰を貫けなくなる。信仰者として生きる労苦を踏まえて、だからこそ、見えない事実を確認しよう。キリストが見えない世界の本質を体現しておられるではないか、と信仰に留まる喜びを語った。一人で語るのではなく、労苦の中にあって生きた昔の信仰者がいる。教会の自分たちも信仰者同士、独りではない。     私たちも信仰共同体の一員であって、慰め合い励まし合う。神に近づけるではないか。今日の壮年会と婦人会もまた同じ願いを以て開かれます。

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