日本キリスト教団河内長野教会

メニュー

kawachinagano-church, since 1905.

説教集

SERMONS

2021年8月22日 説教:森田恭一郎牧師

「我は道なり、我を通ってこそ」

イザヤ五七・一四
ヘブライ九・一~一四

旧い契約=旧約と、新しい契約=新約。私たちは、新しい契約の下に生きています。今日は、その新しい契約の下でささげる礼拝の素晴らしさと地上にあってなお残る課題を考えます。

 

今日の聖書箇所の最初に記される最初の契約(ヘブライ九・一)は旧い契約のことを指しています。まず一段落目。旧い契約の下で、礼拝の場所が整えられます。神殿の建物が建てられる以前は、幕屋を設けました。第一の幕屋と第二の幕屋(=至聖所)があって、必要な祭具を設置します。

第二段落目では、通常、祭司が司る礼拝の儀式は第一の幕屋で執り行います。そして年に一回、大祭司が礼拝儀式を司る場所が、第二の幕屋、聖所に至る至聖所と言われる場所でした。

そこでヘブル書は記します。旧い契約に基づく礼拝では、聖所への道はまだ開かれていない(同九・八)。色々と礼拝の規定がありそれを守ったとしても礼拝をする者の良心を完全にすることが出来ない(同九・九)。つまり、生ける神様に出会い、罪赦されて、今日は礼拝をささげることが出来て本当に良かった、とはなりきらない、という訳です。旧約での規定が変更される改革の時まで(同九・一〇)は、礼拝は不十分だという訳です。

 

そこで契約の内容を思い起こして下さい。「私はあなた方の神となり、あなた方は私の民となる」。これを実現させるために、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのです(同九・一一)。新しい契約を神様がキリストと結んで下さった(私たちとではなく!)訳です。それでキリストが、新しい契約をしっかりと守って下さいました。キリストが、聖所への道を開き、礼拝者の良心を完全にして下さいました。そのために為さったことが幾つかあります。

まず第一に、キリストご自身が、神様と出会える第二の幕屋=聖所に成って下さった。更に大きく、更に完全な幕屋(同九・一一)に成って下さいました。

第二に、ご自身を傷のないものとしてささげられました。雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度、聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです(同九・一二)。  そして第三に、私たちを清めて下さった。私たちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせ(同九・一四)て下さった。良心を清めるというのは、人間の良心そのものを清めるということではありません。以前にもお話しましたが、「信じる心」の信心と、「信じて仰ぐ」信仰。日本人の宗教心は信心であることが多い。初詣に参拝してお祓いしてもらい何か心が清々しく清くなった感じがする。そこではどの神様を拝むのかは問題ではない……。それに対して信仰。信じて仰ぐ相手が大事。人間の心の問題ではなく、礼拝をささげる相手が大事です。私たちの良心が清められるのは、良心が生ける神を礼拝するようになることです。そのように良心が神様に向く時には、いつでも生ける神が向かい合うようにして下さった、というのがキリストの御業の三番目です。

 

このように、新しい契約の下での素晴らしさがあるのですが、私たちの側の課題もあります。生ける神を礼拝する(同九・一四)とあります。その課題とは、この神様を正に生ける神様として礼拝していますか、ということです。

礼拝をささげる気持ちにならないとか、礼拝をささげても自分が全然生き生きとしないならば、神様を死んでいるかのようにして形ばかりの礼拝をささげていることになるでしょう。せっかく父なる神様が、キリストをこの世に遣わし、契約を結び、キリストが大祭司となって、私たちの罪を贖い取って下さった。その意味ではキリストは完全になって下さった。

そうであるのに、歴史に生きる私たちの側は不完全なまま、神様に向き合えない汚れたままです。これが課題です。

 

イザヤ書はこう記しています。主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。私の民の道からつまずきとなる物を除け。神様の民とされて歩むべき道。神様に向き合う道。神様に至る道です。でもその道に躓きとなる物があって妨げている。つい転(こ)けてしまう躓きとは、イザヤ書では異教の神々とそれらを礼拝する習慣、あるいは歴史の中で被った不条理故の、真の神様への諦めでしょう。                 誰がそれを取り除くのでしょうか。貪欲な彼の罪を私は怒り、彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ。私は彼の道を見た(イザヤ五七・一七~)。お怒りになる神様がなおも心のままに歩む民の姿を見たら、普通に考えるなら、罰を下されるでしょう。でもそこで、私は彼を癒やし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために私は唇の実りを創造し、与えよう(イザヤ五七・一八~)。神様の方が回復させて下さり、癒やして下さり、唇の実りを造って下さる。唇の実りとは、神様をほめたたえる賛美の歌です。神様に向き合って賛美をささげ礼拝をささげられるようにして下さるというのです。神様に向かい合い、神様に至る道を神様が整えて下さる。そうして下さるお方が恵みの大祭司、イエス・キリストです。

 

ヘブライ書に戻りますが、終わりの所、まして、永遠の〝霊〟によって、御自身を傷のないものとして神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか(ヘブライ九・一四)。旧約の礼拝儀式がそれなりに人々を清めるのだとすれば、ましてキリストの贖いの御業は、尚更、私たちを清めないはずがない、生ける神を礼拝するようにさせないだろうかと言うのです。私たちを清めて下さる。これは実は未来形です。ですから、礼拝をささげる人間の姿は歴史にあっては、まだ未完成です。

旧い契約の幕屋の下では聖所への道はまだ開かれていない(ヘブライ九・八)とありました。そして続いて、この幕屋とは、今という時の比喩ですとあります。この旧約の不完全な姿が、今の私たちのささげる礼拝の未完成な姿の比喩だというのです。ですからヘブライ書は、新約であっても、教会の礼拝、私たちの礼拝者の姿が完成途上であることを認めている訳です。           その上で、でも私たちを生ける神を礼拝するように方向付けて下さいます。させないでしょうかという日本語の表現、興味深い表現です。ちゃんと出来ているか、いないか、の二者択一ではなくて、出来ていないけれど出来るようにとさせる、方向付ける。聖霊の神様が導いて下さる。忍耐強く、絶えず、出来ていない私たちに、させよう、成らせよう、導き、方向付けようとして下さる。

 

河内長野教会はこの度、今まで長老が担っておりました部の働きを、担当の方に委ねることにしました。そのために長老定数を半分にもしました。教会のそれぞれの働きに皆さんが関わって下さり、それを整えるまとめ役と、それぞれの働きの要望を長老会に伝える担当者の役割を設けました。新たな試みです。それがもう既に、少しずつ皆さんがそれぞれに、こうしてみたら? ああしてみたら? とチャレンジを始めておられます。今まで部の働きとして長老が担っておりました役割を、皆さんが新しい発想で、皆さんの賜物を発揮して担い始めておられます。まだ始まったばかりです。まだ始まってない所もあります。始めれば、新たな発想、新たな働きになるでしょう。今後、とっても楽しみです。教会全体が一層、生き生きしてくるに違いありません。             そして始めれば、課題が新たに見えてくるかも知れません。そうしたらまた、こうしてみたら? ああしてみたら? と新たな工夫を始めたら良い。新たな工夫が始まると期待しています。始まったばかりです。未完成です。でも、だから駄目ということではありません。聖霊なる神様が導いて方向付けして下さいます。試行錯誤です。でも方向付けがあります。

その方向の先は、今日の表現で言えば、生ける神を礼拝する。その途上の段階で、私たちは生き生きしてくる。別の表現で言うと「栄光神に在れ」。歴史の中で、私たち罪人の存在と未完成の働きを通して、あれこれ考え工夫しながら、その途上の段階でも、神の栄光が現されていきます。そのようなものとして、私たちの人生と、私たちが生きる地上の歴史世界は肯定されます。

主イエスは仰いました。「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ一四・六)。大祭司キリストが備えて下さった、神様に至るこの道を進みます。この道は地上で日々信仰者として歩むこと、そして礼拝に集い、祈り、教会に仕えることです。気付いてみたら「教会に育てられてきた」と感謝を以て思えるようになります。その時、私たちは、栄光が神に在り、生ける神に向き合うことから、はずれていません。大祭司キリストが清め、道を備え、その道を歩むようにと聖霊が方向付けて下さるからです。

カテゴリー

過去の説教