創世記一四 ・一七~二〇
ヘブライ七・一~一〇
聖書はキリストを証しする書物です。よく言われるのは、旧約聖書はキリストを待望する仕方で、新約聖書はキリストを想起する仕方で証しするとよく言われます。が、希望を語る時、二千年前に到来されたキリストは、魂にとって頼りになる安定した(船の)錨のような(ヘブライ六・一九)希望、その根拠となるお方です。キリストは、想起するお方であるだけでなく、再び来たり給うお方として将来の希望へと私たちを誘うお方です。教会も、想起しながら、再び来たり給うキリストを待望し将来に向かって歩みます。このことは説教の終わりに、もう一度確認します。
ヘブライ書七章~一一章は、改めて大祭司キリストについて語る部分になります。以前、このことについては、話すことが沢山あるのですが、あなた方の耳が鈍くなっているので、容易に説明できません(ヘブライ五・一二)と言って、固い食物に例えられた、やや難解な記述が続く個所です。
何が食べにくい固い食物なのかと言いますと、大祭司キリストは、永遠の祭司、メルキゼデクのような祭司という点です。聖書に結構馴染んでいる人でも「メルキゼデクのことならよく知っていますよ」と言える人はいないのではないでしょうか。
ヘブライ書も、旧約聖書をキリストを証する書物として読み、キリストを特に大祭司という視点で描いて、旧約聖書はそういうキリストを証し待望している、と言っている訳です。
そして大祭司には二種類の大祭司があって、一つは、レビ族の人たちが担った人間の大祭司、もう一つはメルキゼデクという永遠の大祭司。どちらも不十分であるけれども(=不十分だから、その大祭司はキリストにはなれない。証しするに留まる訳です)、二種類の大祭司を比較しながら、イエス・キリストをより良く証しているのは、メルキゼデクの大祭司の方だということで、今日の箇所はメルキゼデクの大祭司の説明をする訳です。
そこで説明を始めます。このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが(ヘブライ七・一~)。サレム。平和という意味だそうですが、これは後のエルサレムのことのようです。メルキゼデクはサレムの、政治的には王様、宗教的には祭司を兼ねている者でした。
そのメルキゼデクがある時、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。創世記一四章一節以下の記事が背景になるのですが、甥のロトが捕らえられてしまったので、救い出すためにアブラハムが王たちと闘って打ち破って帰ってきた。そのアブラハムをメルキゼデクがパンとぶどう酒とを持って出迎えに来てくれた。この時のことを創世記一四章一六節以下の箇所を読んでみましょう。当時、アブラハムは名前がまだアブラムの頃です。
アブラムは全ての財産を取り返し、親族のロトとその財産、女たちやその他の人々も取り戻した。アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来たとき、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷まで彼を出迎えた。いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った。
「天地の造り主、いと高き神に、アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡されたいと高き神がたたえられますように」。
アブラムは全ての物の十分の一を彼に贈った。
この箇所でヘブライ書が注目している第一点目は、メルキゼデクがアブラハムを祝福したという事です。メルキゼデクの祭司としての役割です。
先ほど、大祭司メルキゼデクも十分ではないと言いましたが、何が不十分かと言いますと、彼は、戦いに勝ったアブラハムを祝福した。だからその祝福はご褒美のような祝福です。それに対して大祭司キリストの祝福は、手柄がなくても与えられるプレゼント=恵みとしての祝福です。
もっとも、メルキゼデクの不十分な所をヘブライ書は語りません。メルキゼデクについて旧約聖書が語るのは、この創世記の箇所と、あとは詩編一一〇編の一ヶ所で、親は誰で、いつからいつまで何年生きた、という類の記事が全くない。謎に包まれた人物です。それでヘブライ書が強調するのは、彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です(ヘブライ七・三)。このような特別なメルキゼデクがアブラハムを祝福した。
そして、さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです(ヘブライ七・七)とあります。ユダヤ教の立場から言いますと、アブラハムは信仰の父と言われる位のトップに位置する人物です。そのアブラハムに祝福を与えたメルキゼデク、彼の方が上に位置するお方だと言っている訳です。これらの点が、イエス・キリストを大祭司として証するのに相応しい点なのです。
さて、もう一つヘブライ書が強調するのが、アブラハムは、メルキゼデクに全てのものの十分の一を分け与えました(ヘブライ七・一)という点です。七章四節以下を読むにあたって、前提となる知識が必要です。イスラエルの民の内、祭司職を担えるのはレビ族だけでした。代わりに彼らは嗣業の土地は与えられなかった。それで、その生活費のために、イスラエルの他の部族が、各々の収入の十分の一をささげることになっていました。これは、レビ記、民数記や申命記に律法として命じられています。十分の一というのは、命じられてこそやっと出来る額でしょう。アブラハムは律法で命じられる以前の段階から、十分の一をささげました。感謝と献身のしるしです。
ところで、レビの子らの中で祭司の職を受ける者は、同じアブラハムの子孫であるにも関わらず、彼らの兄弟である民から十分の一を取るように、律法によって命じられています。それなのに、レビ族の血統以外の者(=メルキゼデク)が、アブラハムから十分の一を受け取って、約束を受けている者(=アブラハム)を祝福したのです(ヘブライ七・四~)。メルキゼデクが、十分の一を受け取る程に、レビ族の祭司とは異なる特別な祭司であり、かつ、祝福を授ける彼は、アブラハム以上の特別な方だということを言っているのです。
十分の一を受け取ることについて、もう一つ興味深いことをヘブライ書は語ります。レビ族の祭司は、人間ですからいずれ死んでしまう。更に、一方では、死ぬはずの人間が十分の一を受けているのですが、他方では、生きている者と証しされている者が、それを受けているのです(ヘブライ七・八)。メルキゼデクは「生きている者と証しされている者」と言われています。生きている者と証しされているから、生きておられるイエス・キリストを証し出来るのだと言っている訳です。
言うまでもなく、神の御子イエス・キリストは永遠に生き給うお方です。この方は常に生きていて(ヘブライ七・二五)とありますし、主イエスご自身が、「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から『私はある』」(ヨハネ八・五八)と宣言しておられます。ずっと前から生きておられる方が、今もおられ、世の完成の時に再び来たり給う。私たちの希望となっておられる。
ヘブライ書の記者は、旧約聖書に既に、キリストを大祭司として証しするメルキゼデクがいたことを発見して、とっても感動している。何だか不思議な人が昔いたようだ、というのではなく、キリストを証しする人物がいたのだと。
人は、不条理な事に遭うと生きる意味があるのかと問い、死が近づくと何故死ななければならないのかと怯える。時に迫害もあったあの時代、でもあなた方は、キリストの生きておられる希望という最終地点を目指して生きて行っていいのだ。旧約聖書が過去からキリストを証し、キリストは確かな希望を指し示しているではないか。へブル書は、生きる確信と信仰の確信を語ってやまない。
さて、終わりに、私たちの教会の事を語りたいと思います。先週の長老会報告にもありましたように、会堂の扉が痛んできたので修繕、いや、新調することにしました。費用として百万円位はかかると思います。その際、以前、その扉の上の所に掲げてありました「栄光、神に在れ」の看板、表札も新しく新調することにしました。
アブラハムは十分の一をささげたくなる程に、祝福を受けたことが本当に嬉しかった、信仰が支えられたに違いない。それと同じように、かつて「栄光、神に在れ」 と掲げた会堂を見る皆さんは、きっと何か嬉しく、信仰の支えられる喜びや感動があったのでしょう。当時のことを知る皆さん、その喜びや感動を思い起こしてみて下さい。その過去の出来事を新たに想起しながら、これからも「栄光、神に在れ」と、将来に向かって信仰が支えられ方向づけられて生きて行こう。長老会は、将来に向けて改めて歩み出す信仰の踏み出しを決意しました。教会の私たち、若い方たちも含めて、みんなで、共有しようではありませんか。将来を見据え、心が引き締まる思いが致します。