イザヤ四三・五~七
ヨハネ黙示録三・七~一三
「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」。私たちはローマ書のこの聖句を知っています。もし「苦難は我慢を、我慢は諦めを、諦めは……」だったら絶望になります。私たちの人生には苦難が伴うからです。幸いなことに、私たちはその苦難を希望の中で生きることが出来ます。
年数回、礼拝でヨハネ黙示録から恵みを味わうことにしています。今日は三章七節以下のフィラデルフィア教会宛ての書簡の部分です。「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、誰も閉じることなく、閉じると、誰も開けることがない」。
閉じるという言葉から二つの聖句を思い起こします。一つはノアの物語「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」(創世記七・一六)。ノアと家族、動物や鳥たち以外は、箱舟に入ることが出来なくなった。もう一つは、十人のおとめの譬え話で、「用意の出来ている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた」(マタイ二五・一〇)。その後で、他のおとめたちが油の買い出しから戻って来たけれども開けてもらえなかった話です。閉じられた戸は、もう開けてもらえない。その門の前で立ち尽くし、時既に遅し、お先真っ暗、絶望です。黙示録も「閉じると誰も開けることがない」と記して、文法的には現在形でその事実を宣言しています。
誰も開けることが出来ない。黙示録もこの世の事実としての閉じられた状況を知っていて、こう表現します。あなたの力は弱かった(三・八)、あるいは全世界に来ようとしている試練の時に(三・一〇)と。試練という苦難の時にどうするか。
来ようとしているというのは、すぐに来るということ。人は「遂に来たか」という思いを持つことがある。感染しなければいいのにと思っていても感染し症状も現れ始めた。「遂に来たか」。この時にどうするか? 我慢する。我慢して治療を受ける。でも治療薬が手元にない。なければもう諦めるしかない。誰も回復へと扉を開けることが出来ないからです。だから、諦めるしかない運命のような今の苦難の現実があり、それで絶望するしかない。苦難→我慢→諦め→絶望の道です。
他方、黙示録は、あなたは忍耐についての私の言葉を守った(三・一〇)と忍耐を語ります。苦難→忍耐→練達→希望の道です。運命のような苦難の中で忍耐します。人間の身体には自然治癒力が備わっています。免疫力とも言えます。もちろん病原菌やウィルスの力に圧倒的に負けることはあります。でも、ぎりぎりの時には免疫力を保っていれば勝てる。そのために必要なのが、実際の療養生活においてもそうなのですが、忍耐力です。冷静に病状を認識し、意識して睡眠をとり安静を保ち暴飲暴食をしない。これが自然治癒力を保ちます。この生活を維持するのは大変です。精神を整えます。忍耐が身に付くと練達になります。何とか悪化を食い止め見通しが見えて来る。回復期に入る。この希望を終わりに持つよりも、最初から希望を持っていると、運命のような苦難の中で自暴自棄にならずに忍耐出来るのではないか。最後まで耐え忍ぶ者は救われる(マルコ一三・一三)。
黙示録は、最初に戻りますと「この方が開けると、誰も閉じることなく」と記します。誰が開けると閉じられないままになるのか。この方、即ち主イエス・キリストです。日本語では判りにくいのですが、「閉じない」は未来形です。閉じないままになる。救いの永遠性を表しています。また見よ、私はあなたの前に門を開いておいた(三・八)とも記しています。文法的なことを言いますと、完了形、開いておいた。その完了状態がいつ始まったのかと言うと、十字架と復活です。救いの確かさを表している。その時以来、門は開いている。誰も閉ざすことは出来ない。
先程のノアの物語は旧約であり、十人のおとめの運命は、譬え話の後、キリストが十字架で負って下さった。キリストが救いの御業を以て開けて下さった。そして、誰も閉じることなく続きます。
私たちの力は実に弱い。そのような私たちに黙示録は、あなたは力が弱かったが、私の言葉を守り、私の名を知らないと言わなかった(三・八)。この「私の言葉」の内容は何か。一つは、先程のあなたは忍耐についての私の言葉を守ったとありますように忍耐についてです。最後まで耐え忍ぶ
者は救われるのです。
言葉の内容のもう一つは、その直前「私があなたを愛していること」(三・九)です。この言葉を守ったと主イエスが言って下さる。
そして、それを彼らに知らせよう。彼らというのは、ユダヤ人と自称しているが偽っている、と黙示録が語る者たちのこと。ここで黙示録は幻を語る。彼らが教会の人たちの足元に来てひれ伏し、彼らに主イエスが信仰者たちを愛していることを知らせよう。神の愛が明らかになる訳です。
ここから併せて思うのは、教会の門が開いているとはこういうことかということです。つまり、それは私たちが異教徒に「どうだ、分かったか」と偉ぶることではなく、教会を通して彼らにも天の門が開かれているということです。私たちが主イエスに愛され、まず私たちがこの愛をしっかりと知り、私たちが「主イエスが私たちを愛しておられる」とこの言葉を守り告白する。思えばそれだけでも素晴らしいことです。更に社会の市民の方たちも共有し得るのでは? そしてみんなでこれを告白出来るなら、何と素晴らしいことでしょう。教会の礼拝はそれが出来る。
この愛に希望の根拠があります。病床にあって、たとえ感染症に罹ることがあっても、それは主イエスに見捨てられたからではない。この私を愛しておられる事実は変わらない。だから苦難の中で忍耐へと進むことが出来る。忍耐し続けて練達になる。そして自然治癒力が保てれば回復し得る。 仮に、病の力の方が強く急変して、死ぬしかない
という状況になっても、それでも私たちは天に希望を繋いで、心の深い所には安心がある。これは、信じて良かったと喜べる信仰の強みです。出来る事なら、誰とでも分かち合い共有したいことです。
こう考えてきますと、ヨハネが語る力が弱いというのは、信仰の弱さではありません。実はこの言葉は直訳すると「小さい」。ミクロ。フィラデルフィアの教会は小アジアの異教世界の中で、小さな群れでしかなかった。その意味で弱かったと言えます。でもそこで、主イエスの言葉を守り、主イエスの愛を信じ、神のご支配を忍耐して待つことが出来た。だから信徒たちにこう語った。「私はあなたの行いを知っている。見よ、私はあなたの前に門を開いておいた。誰もこれを閉めることは出来ない。あなたは力が弱かったが、私の言葉を守り、私の名を知らないと言わなかった」。そして後半部分では「試練の時に、私もあなたを守ろう。 私は、すぐに来る。あなたの栄冠を誰にも奪われないように持っているものを固く守りなさい。勝利を得る者を、私の神の神殿の柱にしよう」。
神殿の柱。これはペトロに言われた御言葉に通じるものです。「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。私はあなたに天国の鍵を授ける」(マタイ一六・一八~一九)。この岩とは、主イエスの言葉、それを信じる信仰の告白です。その信仰の上に主イエスの教会を建てる。ペトロ一人ではありません。その信仰に生きる信仰者全て、教会の皆さん一人ひとりが、教会の岩、教会の柱です。
私たちは小さい。主イエスも弟子たちに仰いま
した。小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国を下さる(ルカ一二・三二)。
イザヤも恐れるな、と呼びかけます。その頃、イスラエルの民も捕囚先の土地で小さな群れでしかなかった。その彼らに、私はあなたと共にいる。息子娘たちのことを彼らは皆、私の名によって呼ばれる者。私の栄光のために創造し、形づくり、完成した者(イザヤ四三・四~七)と言って下さる。
黙示録も小さなフィラデルフィアの教会に語ります。私はその者の上に、私の神の名と、私の神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、私の新しい名を書き記そう(三・一二)。
ペトロも、弟子たちも、イスラエルの民も、フィラデルフィアの教会も、みんな小さな群れなのに何と大きな希望を賜っておられることでしょう。私たちがキリストの栄光のために生き、キリストを信じる者として認められ、そういう者として、完成する! 私たち自身が何か立派に完成するのではない。愛を知り、ただただひたすらに礼拝者とされる。時に礼拝をささげる事自体が困難だったあの時代、大手を振って礼拝に集い、主の御名をたたえることが出来る。しかもこの世のみんなも一緒に。この幻を黙示録は見せてくれています。
祈り 小さな群れの私たちを守り、あなたの大きさをたたえさせて下さる神様。御名をあがめます。社会全体が呻いています。神に愛されていることを知って、希望の内に忍耐できますように。