ヨナ四・一~一一
ルカ一一・三二
今日は、旧約聖書のヨナ書三~四章からお話します。怒(いか)っておられた神様が喜ぶ神様になられたお話です。今日はここに、怒っている人の顔の絵と喜んでいる人の絵を持ってきました。別に誰の顔、ということではありません。怒ったり喜んだりする気持ちを表しています。
さて、神様は最初、怒っていました(怒りの顔の絵を掲げる)。何故って、ニネベの町の人々が、真の神様を信じることなく、やりたい放題悪い事ばっかりしていたからです。そこで神様はお怒りになり、ニネベの人たちを町ごと滅ぼすことにしました。そこでまず、ヨナに声をかけました。「さあ、大いなる都ニネベに行って、私がお前に語る言葉を告げよ」。ヨナは主の命令通り、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」
(ヨナ三・一~四)。ヨナも同じように思いました。ニネベの人たちは真の神様を信じもしないで悪い事ばっかりしているから滅びるのは当たり前だと。
ところが…、ヨナの呼びかけの言葉を聞いて、この四十日の間にニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。粗布をまとうというのは悔い改めのしるしです。このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。各々の悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない」。 そしてみんな、神様のことを思い、各々の悪の道から離れたのでした。
そうしましたら、神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた(ヨナ三・一〇)。 良かったですね(喜びの顔)。
ところが…、ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った(ヨナ四・一、怒りの顔)だって、神様に言われた通りに「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」って呼ばわったのに、そうならなかったからです。
それでヨナは、主に訴えた。「ああ、主よ、私がまだ国にいました時、言った通りではありませんか。だから、私は先にタルシシュに向かって逃げたのです。私には、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」(ヨナ四・二)。そうです、ヨナはちゃんと知っていました。神様が、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方であられると。ちゃんと知っていました。だから、さすが神様はすごい!と神様を喜べばよかった(喜びの顔)、なのに、神様について知っていることが喜んで生きることにならないで、逆に神様のことを怒ってしまいました(怒りの顔)。それで「主よどうか今、私の命を取って下さい。生きているよりも死ぬ方がましです」(ヨナ四・三)。とんでもないことを言い出します。
神様は、文句を言ってくるヨナに向かって怒りを発しても良かったのです(怒りの顔)。でも主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか」(ヨナ四・四)。
ヨナの方は、そう言われても怒りが収まりません。神様の言う事に耳を貸さず、次の日になっても怒りがまだ収まりません(怒りの顔)。そして、ニネベの人たちが、悪いことをしていたのだから、何とか滅びないか、と町の様子を見ていました。朝になり、そして日が上って来ると段々日差しが強くなってきました。そうしたら、日陰をつくるのに丁度いい、葉っぱのおおきなとうごまの木がありました。実はこのとうごまの木、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。神様の慈しみの木です。そしてとうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ(喜びの顔)。
ところが翌日の明け方、ヨナはその翌日になってもまだ、町が滅びないかなとまだ待っている。それで、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです」。ヨナは、ぐったりしながら神様のこと、また怒っている(怒りの顔)。
そこで、神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」。彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです」(ヨナ四・九、怒りの顔)。もうヤケになって怒りまくっている感じですね。
すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」。神様のお顔はどちらですか…?(喜びの顔)喜びの顔だと思います。
最初、怒っていたのに、なんで喜びの顔になったのでしょう? 人々が悪を離れたからでしょうかね? それでは怒り続けているヨナに対してはどうですか? 神様はヨナに対してどうなるでしょうか? 多分、神様は、ヨナに対しても、惜しまずにはいられないお気持ちなのだと思います。ヨナがここにいる。このことを喜んでいらっしゃる(喜びの顔)に違いありません。
よく見て下さい。最後の神様のお言葉。ニネベの人たちを神様がどうご覧になっているか。ニネベの町の人たちが、悪から離れて右も左も弁えて、右にもそれず、左にもそれず、真っすぐ正しく歩むようになったから喜んだのでしょうか? 「それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左も弁えぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」。右も左も弁えないこの人たちを、敢えて喜んで下さるのは何故ですか。
ニネベの人々について主イエスはこう仰いました。「また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう」(ルカ一一・三二)。
ニネベの人たちが、所詮、正しくないから滅ぼされるべきだと考えるヨナの考え方、この考え方を罪に定めると言っておられます。何故なら「ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである」。ニネベの人たちが悔い改めて、悪から離れ、善い人になりました、という事ではありません。自分たちが悪から離れようとした所で、所全、罪人でしかありません。でもニネベの王様は「そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない」。悔い改めたら救って下さるべきだと権利の主張をしたのではありません。滅びを免れるかもしれない、とそのように神様の恵みと憐れみにすがっただけです。そして「ここに、ヨナにまさるものがある」(ルカ一一・三二)。それは主イエスのことです。ニネベの人たちのように右も左も弁えない人々のために。それからヨナみたいに悪いことをしたら滅びると思い込んで、人間の行いだけに思いを向け、神様の恵み・憐れみ・愛に真っすぐに思いを向けないでいる人たちのために、彼らに向けられている怒りを十字架に向けられました。主イエスは十字架にかかり罪を贖って下さいました。この主イエスによって、神様が恵みと憐れみの神であり、忍耐深く慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方であることが、明確になりました。
ヨナは神様から「どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか」、こう言われて、ヨナはこの後、どちらの顔になりましたか? 喜びの顔であって欲しいですね(喜びの顔)。