申命記五・一一
マタイ五・三三-三七
十戒を味わっております。本日は第三戒、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主の名、神様のお名前であります。
名前とは、それがないと呼ぶのに困るからつけておく単なる呼び名ではありません。その人自身を現すものです。私たちは誰かの名前を聞きますと、その姿、顔、声、性格、自分との関わりを思い起こす訳です。
神様がご自身の名を現す。それは神様の自己紹介そのものです。十戒に先立ち顕現句がありますが、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。ここにいわゆる名前というものはありませんが、自己紹介をしておられる訳で、ご自身を明らかにし、名前を告げていると考えてもいいでしょう。出エジプト記にある「私はある、私はあるという者だ」(三・一四)も同じです。モーセがお名前を尋ねたのに対してお答えになったものです。十戒の顕現句でもお名前を明らかにしておられると言えます。
十戒は、ご自身の名前を明らかにされた神様を前にしながら、私たちは、そのような神様の名をみだりに唱えるようなことは致しません、と応えるように命じている訳です。
前回、第二戒、いかなる像も造ってはならないを学びましたが、これは第三戒とよく繋がっていると思います。いつも新しく生ける神様と出会いなさいと言っている戒めだと前回受けとめました。そして生ける神様の前に額づいて拝みます。そして第三戒は、主の名をみだりに唱えてはならない。生ける神様を前にして私たちがすべきことは、主の名を呼びまつるのだということです。みだりにではなく真実に唱える。それは構わないし、そのように唱えなければなりません。神様の偶像から神様の御名へ。第二戒から第三戒への私たちの礼拝の姿、姿勢を明らかにしています。
招きの言葉にもありましたが、告白を神へのいけにえとしてささげ、いと高き神に満願の献げ物をせよ。 それから、私を呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって、お前はわたしの栄光を輝かすであろう(詩編五〇・一四、一五節)。口語訳では、悩みの日に私を呼べでありました。苦難の日に主の名を呼んで良いのです。
その上で今日の第三戒の課題を考えます。みだりに唱えてはならない。みだりに、乱れて、乱用して唱えてはならない。主の御名であるのだから。みだりに唱えることについて二つ。まず一番目。名というのは自分自身を現し、名を呼ぶのは相手自身を呼び出すことです。「誰々さーん」と名を呼ぶとその人はこちらを向いて「はーい」と返事をしてくれる。関係が出来る。
当時、おまじないや呪術において神々の名を呼ぶという事があったようです。その名前を呼んで、神々を呼び出して、神々が出て来てくれて、こちら側の願い事を聞き、叶えてくれる。それを商売にしている人たちがいたようです。これでは人間が神様を利用している。主客転倒です。人は人でしかない。それが主客転倒して神と人との秩序が乱れる。当時のおまじないの中でそれが頻繁に起こっている。だから十戒は、みだりに唱えてはならない、と言う。もし、神の御名を呼ぶのなら、人間の側の御前における謙虚さや誠実さが求められる訳です。
先程も、私を呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。名を呼んで良いと言って下さる。けれども、そのことによって、お前はわたしの栄光を輝かすであろう。この事に至らなければならない。交読の詩編二二編二三-二四節も、私は兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美しますと御名に賛美が伴い、そして、皆、主に栄光を帰せよ、と栄光を帰すことに至ります。悩みの日に主の名を呼んで願いが叶ったらそれでお終いというのではなく、神様の栄光を輝かし賛美に至る。御名を呼び、御名を用いるのは、賛美をささげ栄光を帰すためです。これを抜きに御名を用いるのは、みだりに用いる事であり、自分の方が神になり関係の秩序が乱れることになる訳です。
二番目に、御名が用いられるのは、誓いを立てる時が多かった。主の御名にかけて誓うから私の誓いは本当だ、と自分の誓いの保障として御名を用いることがよくあったようです。それだけに誠実な誓いが求められます。誓約の時に御名を用いてはいけないということではありません。例えば、アメリカでは、聖書に手を置いて宣誓するという事があります。大統領就任の時、また裁判の証言にあたって聖書に手を置いて宣誓をします。アメリカで仕事をした人の話を以前聞いたことがありますが、その人の企業が訴えられて裁判で宣誓をする。宣誓をした後に、故意に虚偽の証言をしていたことが判明したら、そのことで社会的信用を失う。アメリカ社会にいて証言の重みを思ったとのことです。日本での国会での答弁や国会証人はどうなのか、また自分は、と思わされました。
今日、当たり前のように契約社会になりました。契約に反したらペナルティを課せられます。誠実に契約し、契約を履行することが求められます。
主イエスは山上の説教の中で言われました。「また、あなた方も聞いている通り、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている」(マタイ五・三三) 。その通りです。でもその通りに守られていなかった。であるのに、安易に主の御名に於いて誓いをしていたようです。自分の誓いを保障するために御名が用いられていた。それを受けて主イエスは仰いました。「しかし、私は言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない」。本気で守らないなら、最初から誓うなと言っておられる訳です。
また七章ではこうも仰いました。「私に向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入る訳ではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ七・二一)。業の推奨だけでなく「主よ、主よ」と呼ぶことの誠実さを問うていると言えるでしょう。ならば、私たちは誓約を守れないからと誓わないと開き直れば良いのでしょうか? そうではなく、信実に主のみ前に立ち、誓約しなければならない時があるでしょう。
今日は教会学校では、カリキュラムに従ってイザヤの召命を扱いました。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地を全て覆う」。その神様のお姿にまみえ、そういう神様の自己紹介の場に立たされた時、自分の汚れを思わない訳にはいかなかった。けれどもその聖なる神様の聖さによって自分が清められた時、御声が聞こえて来た。「誰を遣わすべきか」。神様の御名が示された時、あたかもそれが無かったかの如く無視して背を向けて出て行くことはイザヤには出来なかった。応答して誓約する。「私がここにおります。私を遣わして下さい」。主の御名が現された時、人は額ずいて拝み、応答し誓約するしかありません。
キリスト教徒の私たちは皆、誓約をして洗礼を受けました。イエス・キリストを告白しますかと問われ、告白しますと誓約し洗礼を受けました。誓ったのです。そして三位一体の神の御名において牧師が一人ひとりに洗礼を授けます。そして会衆も皆、アーメンと唱和して応答します。アーメンと言うのも誓約です。本当にその通りですと。
私たちは自分と言う存在がどういう自分であるか。色々表現出来るでしょう。洗礼を受けた私たちは、自分という者、キリストによって罪を贖って戴いた、罪を赦された私たちです。キリストがこの私に関わって下さり、汚れた自分でしかないのに、あなたのものとされている。そういう自分になりました。こういう自分を私たちは戴いて、こういう自分になっている訳です。
それなのに後になって、信仰を告白し誓約したこと、三位一体の神様の御名に於いて洗礼を授けられたこと、アーメンと応えたこと、これをいい加減にして、自分はキリスト者でも、教会人でもない、礼拝者でも何でもないと考えて生きるのだとすれば、洗礼を受けて確立した「自分自身」が崩壊したことになります。本当の自分を失う。
私たちは弱い者ですから、こういう崩壊が起こり得る。だから繰り返し神様の前に立つ。今日も招かれて、ここに額づき拝みます。
そしてこれから聖餐に与ります。聖餐に於いて聖なる主の御名における誓約をしたことに立ち戻ることが出来ます。聖餐に於いて、私は主、私は十字架であなたを導き出した神であると御名を現された主イエス・キリストの前に立つことになるからです。私たちは、ご自身を現された神様の側の真実の前に立たされて立ち戻り、自分自身を回復します。そういう場をこの礼拝に於いて、そして聖餐に於いて聖霊が用意して下さっています。神様の前にいない自分になりかけていた自分が、聖餐においてこそ確立する本来の自分に立ち返ることを許されている。感謝したい。その時、私たちはみだりにではなく、神様の御名を信実にほめたたえて、神様の栄光を賛美しているのです。