ヨハネ一・一―五、六―一三、一四―一八
三・一六―一九、一二・四四―四八
聖夜を迎えております。以前、重い病の人から聞いたことがあります。「こうしてベッドで夜を迎えると、もう朝は来ないのではないか、ぐうーっと暗闇の中に落ちて行ってそのまま戻って来られなくなるような思いになる」と。思えば、クリスマスは、そのような夜に起こりました。
マタイ福音書とルカ福音書はクリスマスの以前の事を記しています。クリスマスの十か月程前に天使がマリアの所に遣わされて告げました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。あなたは身ごもって男の子を産む。その子は、いと高き方=神様の御子と言われる」。それから何か月位経ってからでしょうか。マリアの婚約者であるヨセフの所にも天使が夢の中に現れこう告げます。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。見よ、おとめが身ごもって男の子を産む」。それはインマヌエル、神は我々と共におられる出来事であると福音書は記します。クリスマスの出来事は、神様が天上から地上へと降って来られて、聖霊によってマリアのお腹の中に宿り、肉となって、赤ちゃん乳飲み子としてついにこの世に生まれた出来事です。神様が肉となって人となる。そうやって我らと共におられる。不思議な秘義、不思議な神秘です。
そして、ヨセフとマリアはクリスマスを迎えます。旅の途中、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。そうルカは記します。
今晩読んで戴きましたヨハネ福音書、著者ヨハネは、クリスマスの晩の出来事に想いを深めて、そしてまた、その後の主イエスの営み、十字架にかかり、死人の中から甦られて天に挙げられた、この主イエスに想いを深めていきました。
神様には愛の御心がある。御心の内に決意されたことがあってその内容を表現すると言葉になります。だからここで言う言葉は神様そのものです。万物は言葉によって成った。私たちも御心の内に愛される者として生まれて来た。クリスマスは神様であられるその言葉が肉となって、飼い葉桶に寝かされた乳飲み子として地上のこの世に宿られた。だから、肉となったイエス様は神様なのだと、ヨハネ福音書は思いを深めます。三段論法のA=B、A=Cならば、B=C。そのような論法でこの文章になりました。
一章一節、初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。それから一四節、言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。そして一七節以下、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方(=イエス・キリスト)が神を示されたのである。
神を示された。それは、丁度私たちが、仕事で名刺を交換するようなものです。名詞を見ながらこの方はこういう肩書の、こういうお名前の人だ分かります。神様も私たち人間に名刺をお渡し下さいました。もちろん紙切れの名刺ではなくて、生きた名刺、すなわちイエス・キリストです。この名刺を見ると、神様って光輝き、恵みと真理に満ちた愛の神様なんだなと分かる…はずです。
神の御心を表す言葉として主イエス・キリストは、この世にやって来られました。だから言葉は世にあったということとなりました。主イエス・キリストは、クリスマスの夜、暗闇の中に光としてやって来られました。それで光は暗闇の中で輝いている。その光は、まことの光で、世に来て全ての人を照らすのです。
でも、暗闇は光を理解しなかった。世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、一二節、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。神の子となる。それは私たちが神様の御子になることでもなく、私たちが神の子と呼ばれるに相応しく何か立派な人になることでもありません。ただイエス・キリストを受け入れ、その名を信じるだけです。
三章一六節、神は、その独り子をお与えになった程に、世を愛された。独り子をお与えになった。賜った。プレゼントして下さった。プレゼントです。ご褒美ではありません。何も手柄をたてなくても独り子イエス様というプレゼントを戴いていいのです。それは独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。そして御子を信じる者は裁かれない。プレゼントはただ戴けばいいものです。それなのにプレゼントをもらわないで受け取らないだなんて、もったいないことです。それをここでは「裁き」と言っています。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。もったいないですね。
それで、神の御子イエス様がこの世にお出でになったクリスマスの晩のこと、そこに、私たちも想いを深めます。先日の礼拝でも申し上げたことですが、ヨセフもマリアも、馬小屋で産みたいなんて思いませんでした。本当は宿屋が良かったんです。飼い葉桶に寝かせるなんて、本当はベッドに寝かせてあげたかった。布にくるむのではなく、ふかふかのお布団をかけてあげたかった。でも、現実はそれを許しませんでした。馬小屋の飼い葉桶が、布にくるまれただけの生れたばかりの神の御子を受け入れる所となりました。
その馬小屋、建てられたばかりの新築の綺麗な馬小屋ではなかったに違いありません。その飼い葉桶、造られたばかりの新品のピカピカの飼い葉桶ではなかったことでしょう。この飼い葉桶に想いを深めて、宗教改革者ルターが言いました。「それはまるで聖書のようだ。罪にまみれた人間の言葉で書かれているが、そこに神の言葉が盛られている」。
もしこの言い方を良しとするなら、私たちは言えるでしょうか。この飼い葉桶、それはまるで私の心のようだ。罪でまみれ、傷つき、心配りの足らないボロボロの心でしかないけれど、この私の心に、そして傷つけた相手の人の心にも神様がおいで下さったと…。そしてまた、この飼い葉桶、それはまるで私たちの肉の体のようだ。時に痛みを抱え、病を患い、問題を抱え、年を重ね、いずれは死んでいく、そういう限りあるボロボロの肉の体でしかないけれど、この体に、神様がおいで下さったと…。土の器に宝が盛られています。
「神様どこにいるの」という問答形式=Q&Aの絵本があります。その中から問答を二つご紹介しましょう。どちらも五歳の男の子と五歳の女の子が答えています。
神様は空にいるの?
違うよ。神様は空になんかいないよ。
僕の心の中にいるんだ。
なぜ、神様は、君の所に来たの?
だって、私が、病気だからよ。
神様はどこにいるの? 自分の所に神様が来て下さった。この子たちのクリスマスになりました。五歳の子どもは何と素直に、クリスマスの神秘のプレゼントを受け取っていることでしょう!
ここまで想いを深めてくれば、五番目の聖書は、読むだけで分かります。ただ、終わりの日の裁きについて記してあるので一言、説明しておきます。
終わりの日に裁く、例えば野球の審判員が審判するようなものです。ストライクかボールか、事柄をはっきりさせます。終わりの日の裁き、それは飼い葉桶に寝かされた乳飲み子が、十字架にかかられたイエスが、成る程、神ご自身であられたと、神秘の事柄がその人に明確にはっきりすることです。そして「イエス様は神様です。私の主、私の神様」と主イエスに向かって言えるようになって、プレゼントを受け取るようになります。
一二章の所です。主イエスは叫んで、こう言われました。「私を信じる者は、私を信じるのではなくて、私を遣わされた方を信じるのである。私を見る者は、私を遣わされた方を見るのである。私を信じる者が、誰も暗闇の中に留まることのないように、私は光として世に来た。私の言葉を聞いて、それを守らない者がいても、私はその者を裁かない。私は、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。私を拒み、私の言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。私の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」。
神様、イエス・キリストがこの世の私たちの所に来て下さり、また、あなたの大切な独り子をプレゼントして下さり有難うございます。謹んで喜んで受け取らせて戴きます。世界中にこの喜びが広がりますように。