レビ記一九・一七―一八
Ⅰヨハネ五・一―五
今日は、ヨハネの手紙が語る兄弟愛と、福音書が語る隣人愛、それと、その関係が主題です。
兄弟愛は イエス・キリストを信じる者同士の愛です。今日のヨハネの手紙は兄弟愛を明確に語っています。イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生れた者です。そして生んで下さった方を愛する人は皆、その方から生れた者をも愛します(五・一)。私たちは元来、罪人でしかないのですが、主イエスによって罪を贖われ愛され、その恵みを信じることへと導かれました。そのように導かれた者を、ヨハネは神から生まれた者と言います。神から生まれた者が同じように神から生まれた者を愛する、これが兄弟愛です。
ある方がヨハネ書簡の説教を聴き、質問してこられました。神は愛であると語り、兄弟愛を語るけれども、信仰のない人は、その愛の対象にならないのですか。もっともな質問です。その問いに答えますと、兄弟愛は信じる者同士の愛ですが、隣人愛は信じる者以外にも向けられる愛ですと答えましょう。そうしたら続けてまた質問されるかもしれません。何故、二種類の愛があるのですか。隣人愛だけで良いのでは? 二つの愛の関係は?
ヨハネの手紙が兄弟愛を強調しなければならなかった理由があります。それは当時のヨハネの教会が置かれていた状況から生じます。当時、キリスト教は社会的に公認されていなかった。迫害もあった。極端に言うと周囲は敵だった。敵から自分を守らねばならなかった。自分たちが一致団結、結束することが必要だった訳です。
そのためには自分たちの本当の自分たちらしさ、アイデンティティをしっかり持つ。自分たちの中で信仰を公に告白することが不可欠です。その告白の内容は、イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す(四・二)。そして洗礼を受け、聖餐に与る。聖餐に与るのは、洗礼を受けた者、洗礼を受けるのは信仰を告白する者です。そうでないと、教会内で信仰内容が曖昧になっていく。また対社会的にも自分の信仰者であることが曖昧になり、信仰内容が骨抜きにされていく。また同時に、その信仰の故に、肉体を以て生きている兄弟を愛することが、ヨハネ書簡のこの教会の状況の中で不可欠なこととなりました。
今日は教会行事の暦では世界聖餐日です。教会は歴史の中で、東方教会と西方教会、西方教会はローマカトリック教会とプロテスタント教会、プロテスタント教会は諸教派に分かれて今日に至っている。更に世界中で様々な宗教があり、また宗教を持たない人たちも多なり、世俗化も進み、神というものが見えなくなっている。そういう中で、教会は神はおられる。キリストを見れば分かる。そのイエス・キリストをちゃんと信仰告白して、洗礼を受け、共に聖餐に与ろう。そこに於いてキリスト教会と信徒は存在する。そうやって礼拝をささげ、信仰に基づく聖餐を守ってきた。その諸教会が、この点では一致するという教会の一致点を確認し合うのが世界聖餐日の主旨でしょう。
もっとも、社会にあって自分を守る別の守り方があり得た。社会の物事の考え方に自分を同化させていくやり方です。当時の哲学的、また宗教的な物事の考え、常識がありました。その一つは、神たるお方が人間である、まして死ぬなんてあるはずがない。それに合わせる。
今日の教会から見れば明らかに異端的な考え方です。それが例えば、共観福音書からも読もうと思えば読めてしまう。聖書の解釈もどうにでもなり得ました。というのは、当時はまだ今日の信仰告白の枠組みがありませんでしたから、正統と異端の区別ははっきりしていませんでした。色んな考え方が起こり得た訳です。御子キリストの人性を否定し、人間イエスの神性を否定する考えは、教会の外の人だけでなく、教会の内側からも生じました。イエス・キリストを信じながらも、特にヨハネの教会では、その人性を否定する信者がいて、イエス・キリストをどう信じるかを巡り分裂が起こった。このような状況の下で、ヨハネの手紙は、正統な信仰を語り礼拝に相応しい書として、歴史の中に残っていった書の一つである訳です。
レビ記を読みました。律法の中で大事なこととして主イエスが挙げられた、神を愛することと隣人を愛することの典拠個所の一つです。レビ記は自分自身を愛するように隣人を愛しなさい(一九・一八)と語って、一見、隣人愛を語っているようです。神様がこの私を愛するように、神に愛されている自分のように、神に愛される隣人を愛しなさい。ここで隣人愛を記していますが、ここに明らかなように、その対象が、兄弟、同胞、民という限定された愛です。心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。民の人々に恨みを抱いてはならない。異邦人のことを言っていない。レビ記は兄弟愛を言っています。
主イエスは、ユダヤ教のファリサイ派の人たち、律法学者たちに対して、善きサマリア人の譬え話(ルカ一〇・三〇~)をお語りになりました。それは律法学者たちがレビ記の律法を根拠に「私の隣人とは誰の事ですか」イスラエルの兄弟の事ですよね、との問いかけに答えたものです。この譬え話では、追いはぎに襲われて倒れている人を心込めて介抱したのは、イスラエルの人たちから見て、兄弟ではないサマリア人でありました。そして主イエスは、この「追いはぎに襲われた人の隣人になったのは誰か」と問い返すのでありました。兄弟と言われる人たち以外の人も隣人として愛するようにと、レビ記を超えたのです。
主イエスはまた、敵を愛しなさいと仰いました(マタイ五・四四)。主イエスのこれらのお言葉からしますと、兄弟愛にこだわるのは如何なものかとも思えます。が、私たちに、敵を愛することが出来るのでしょうか? 敵を愛する。これはまず何よりも、私たちの倫理を示すというより、キリストを証しする言葉です。十字架の出来事を言い表しています。考えてみれば、私たちは生まれながらにして神の子ではなかった。罪の子です。神に敵対していた。この私たちをキリストが愛して下さった。その愛を受けた者として地上で導かれた者が、神の愛から生まれた者とされている。
その上で、私たちも隣人愛を生きたいと思います。キリストは敵を愛されました。私たちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ(Ⅰヨハネ二・二)となって下さいました。キリストが万人、万物を愛したもう。だから私たちも信仰者でない人たちに対してもそうでありたい。でも無理することはない。先日お話した、あの電車で席を譲る話を思い起こして欲しい。たまたま席を譲る隣人がそこにいてその機会に恵まれ、それが出来る状況にあった。そこからでいい。
キリストが全世界の罪を償ういけにえとなって下さった。万人救済とも言えます。万人救済という用語を使いますと、万人だから信じなくても皆救われる信仰不要になり、あまり評判がよくない用語です。でもそれは形式的論理展開によるもの。そういう抽象的、論理的な話としてではなく、目の前にいる隣人を愛する具体性の中で、大事な考え方です。その人が信仰者でなくても、この人も主イエスが十字架にかかって罪を贖って下さった人なのだ、そう信じることによって、隣人愛に生きようとする自分の動機、心の支えが生じます。
ヨハネが大事にしたことは、敵に囲まれている状況の中で、教会共同体を確立することでした。だからまず兄弟を大事にしました。信仰を公に告白し、洗礼を受け、共に聖餐に与る、この教会共同体の信仰の友を大切にします。逆に言いますと、教会の中がギスギスしているのに、近隣の人たちを愛するというのは無理があるでしょう。教会の中で信仰の一致と兄弟愛がそれなりに成り立ってこそ「近隣の人たちにも神様の愛を伝えたいですね」と隣人愛の思いが展開していきます。兄弟愛があり隣人愛が展開します。自分の信仰者のアイデンティティが確立し、そして世の中に対してはキリストの愛の証し人として生きる者となります。
そして今日のヨハネの手紙の終わりの所、神から生れた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰です。誰が世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。勝つとは? 勝つというと負けじと相手をやっつけるイメージを持ってしまいますが、ここに強調点はありません。周囲の世の中の考え方、常識に振り回されないということです。周囲は、御子たる者は人であるはずがないとか、イエスは御子ではなくただの人だとか言うかもしれない。そんなことに振り回されずに、自分の信仰を確立させる。それが世に勝つ信仰です。
辛いことがあります。困難なこと、悲しいこと、親しい者を失うこともあります。そのままに、でも振り回されない。神様が私たちを愛しておられるから。教会で、信仰の兄弟同士だからこそ確認出来る事柄を確認し、振り回されずにキリストの愛の中に生き続け立ち続けます。ここに私たちは招かれています。感謝と喜びを以て受けとめます。