箴言 一〇・一二
Ⅰヨハネ四・一六―二一
愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します(一八節)。これが今日の主題です。ヨハネはなぜならと言葉を続けます。恐れは罰を伴いと。罰せられることを恐れている。そしてそのように、恐れる者には愛が全うされていない。愛が全うされていない恐れ、その恐れを締め出さないでいる愛は、不完全な愛。不完全な愛は恐れを引きずっています。これを逆に言えば、完全な愛には恐れがない。愛の何が完全かというと、罰せられることを恐れる必要がなくなっている、そういう愛が完全ということです。
こうして、愛が私たちの内に全うされている(一七節)。「全うされているなんて、とんでもない、私はそんな立派な者ではありません」と思ってしまいます。そう思うなら私たちは多分、全うされている=完全であるという言葉を誤解しています。私たちの愛の行為が完全であると考えているのではありませんか?
恐れを締め出した完全な愛、それと、恐れを引きずって罰を恐れる全うされていない不完全な愛。ヨハネの聖句から、愛についてのそういう区別が出来ます。この愛の区別について、もう少しイメージを持ちたいと思います。恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていない(一八節)の、罰という名詞形の言葉、新約聖書では二か所だけで、もう一つはマタイ福音書二五章の譬え話の終りの所。こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命に与るのである(四六節)。
この譬え話、王様の前に二種類の人たちが登場します。片方は永遠の命に与り、もう一方の人たちは永遠の罰を受ける。この人たちの違いは何か。片方が愛し、もう片方は愛さなかったのではない。
三五節以下。お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ」。すると、正しい人たちが王に答える。「主よ、いつ私たちは(中略)、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」。そこで、王は答える。「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」。この人たちは最も小さい者の一人を愛したと王様が言って下さいました。
もう一方の人たちは? 続けて 四一節以下。それから、王は左側にいる人たちにも言う。「呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、私が飢えていた時に食べさせず、のどが渇いた時に飲ませず、旅をしていた時に宿を貸さず、裸の時に着せず、病気の時、牢にいた時に、訪ねてくれなかったからだ」。 すると、彼らも答える。『主よ、いつ私たちは(中略)、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」。しましたよ、と言っている訳です。
両方とも愛しました。一方の人たちは最も小さい者の一人を愛し、もう一方の人たちは王様を愛した。
問題は、後者の人たちが何故、王を愛することにこだわったのかということです。王様は裁くことの出来る権威を持ちます。だからこの人たちは裁かれないようにと王様を愛した。「王様、私たちはちゃんと王様を愛しましたよ。だから王様、私たちを裁いて罰することはないですよね」という思いで王を愛した。恐れが伴い、恐れを締め出す完全な愛になっていない。罰を受けることを恐れて、それで王を愛した。「いつお世話しなかったでしょうか」と、他でもない王を愛した事にこだわります。
一方、永遠の命に与る人は、罰せられないように愛さなければならないという恐れが全くない。王様に愛の行為をしなくても全く平気です。だから「いつしたでしょうか」と言う。また小さい者に関わっているのですが「小さい者の一人にもしましたよ」と自分の愛にこだわっていない。
皆さんは、電車で誰かに席を譲った事が何度もあったと思います。そして降りる時に「私は今日席を譲ったぞ」って、殊更にそれを思い起こしたりはしない。もう忘れているに違いありません。席を譲ったことは、もうどうでもいいことになっているからです。自分がたまたま出来る範囲でその機会に恵まれた。それだけの事で些細な事です。ささやかな事です。無理に愛しなさいという事ではない。これは終末の日に神様の前に立った時にも「あの時私はあの人に席を譲りました!」なんて主張もしないし、思い出しもしないと思います。
この譬え話に戻りまして、その最後、こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。これを読みますと、結局、恐れを伴って愛した人たちは永遠の罰を受けたのだとしたら、やっぱり罰があると、私たちの愛は、どこかで恐れを締め出すことのないまま、不完全なのではないかと思えてしまいます。
でも、心配は要りません。本当に恐れを締め出すように神様が為すべきことをして下さいました。エルサレム入場以降の二五章最後に至る一連の譬え話で、殆ど、最後の箇所で戸が閉められるとか、外の暗闇に追い出されるとか、罰を記していますが、それら全ては二六章一節に集約していきます。イエスはこれらの言葉を全て語り終えると、弟子たちに言われた。「あなた方も知っている通り、二日後は過越祭である。人の子は、十字架に付けられるために引き渡される」。
一連の譬え話を全て語り終えられたタイミング、二五章の終わりでも「この者どもは永遠の罰を受ける」と語り終えた所での、十字架直前の受難予告です。実はそれは十字架に付けられることの内実、その意味を語っておられる訳です。十字架で私はただ死んでしまうのではない、一連の譬え話で語った一連の裁き、それを負うのが、十字架の私なのだと言っておられる訳です。だから夫々の譬え話や罰の話をそこだけで完結して読み終えたら駄目です。二六章一節を目指して語っている。そのための譬え話として読まなければ意味を読み間違えます。これは大事な事柄です。
この十字架があるからこそ、私たちは恐れを抱く必要がない。キリストの愛があるから恐れを締め出す。この点で完全です。全うされています。私たちは安心して、出来る機会に出来る範囲で愛することをし、そのこと自体を喜び、それで終わればいい。恐れはもうありません。感謝あるのみ。
ヨハネに戻ります。私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛して下さったからです(一九節)。私たちが兄弟を愛する前に、神がまず私たちを完全に愛して下さった。キリストの愛は二つの意味で完全です。その愛そのものも完全、恐れなく愛された点でも完全です。その恐れを伴わない愛が私たちに注がれている。私たちの気が付かない内にです。その完全な、恐れを締め出した愛を以て、私たちもささやかながらでも兄弟を愛する者とされている。それはまず神様が愛して下さった神様の側の御業です。
神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです(二一節)。これが、神から受けた掟です。掟だとか、愛すべきですなどと言われると、立派に愛しなさいと、何か重い義務的な感じがしますね。でも、これを直訳しますと、神を愛する人は、兄弟を愛するために、そのために神から受けたこの掟があるのですとなります。兄弟愛へと促す方向を示すための神からの掟があると言って、義務と言うより、どう生きるかを示しています。
因みに、私たちの礼拝で十戒を唱えます。今は、礼拝順序の後ろの《感謝と献身の応答》の所で唱えます。以前は今の区分で言いますと前の《悔い改め》の所で唱えました。悔い改めの所で唱えると「自分は十分に十戒を守り行うことが出来ませんでした」と自分の罪、至らなさを思い知って悔い改めるためのものとして十戒が機能することになります。それに比べ、今の所で唱えますと、キリストの救いの御業によって救われ愛された者は、どういう方向性を以て生きたらいいか、を指し示すものとして十戒が機能します。これは二一節で語っていることと同じことです。それは義務的なもの、私たちの出来なかったことを責め立てるものではない。むしろ明るく、自分なりにこうやって生きて行こうと前を指し示すものとなります。
箴言は、愛は全ての罪を覆うと語ります。地上にいる間、終末までの間、罪が無くなる訳ではない。でもキリストが十字架にかかり、負って下さることによって、神様の御前に私たちの罪が覆い隠されている。それ故、私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています(一六節)。大胆に信じましょう。そして神は愛です。愛に留まる人は、神の内に留まり、神もその人の内に留まって下さいます。これも大胆に信じていいのです。
愛に覆われている私たちは、神様からご覧になるとこの世で私たちもイエスのようである(一七節後半)。それは私たちの愛が主イエスのように立派だからではありません。主イエスの愛が私たちの罪を覆っているからです。だから神様からご覧になるとイエスのように見える。これをアーメンと言おう、とヨハネは勧めています。