日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2019年4月19日 説教:森田恭一郎牧師

「全ての人を引き寄せよう」

イザヤ書53章1~12節
ヨハネによる福音書21章15~19節
「栄光、神に在れ」。これがキリスト教の中心です。当教会も自覚しています。主イエス・キリストにあって「栄光、神にあれ」が成就している。十字架による贖罪、復活による永遠の命が中心では?と思われたかもしれませんが、中心は、十字架や復活に明らかになる神の栄光だと言えます。

さて「今、私は心騒ぐ」。「心」とありますが、元は身体的な生命を表す言葉です。ですから体が身震いする程に心が騒ぐということでしょう。そして「父よ、私をこの時から救って下さい」と言おうかと思う位だった。ここはヨハネにおけるゲツセマネの祈りとも言われる個所ですが、ゲツセマネの祈りにおける「この杯を取り去って下さい」に対応する言葉です。
身震いする程に心騒ぐのは何故か。一つ目は十字架の身体的苦しみを前にしての心の騒ぎ。二つ目は、十字架に於いて神に見捨てられる、罪の裁きとしての死の恐れ故の心の騒ぎ。だから「私をこの時から救って下さい」との思いにもなります。三つ目は、十字架の死の後、本当に甦らされるのかという心の騒ぎ。ご自分でも預言してこられたこと、頭では分かっておられたに違いない。でもいざその時を迎える段になって心騒ぐのは当然です。四番目は、自分が十字架にかかることが本当に全ての人の罪を贖うことになるのか。これも分かっている。イザヤ書が語るように彼は自らを償いの献げ物としたと。更に言い換えて、この十字架に於いて父なる神の栄光を本当に現すことになるのか。それで心騒ぐ。主は分かっておられます。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。この世に来られた受肉の完成としての受難です。

ヨハネ福音書は一つの言葉に複数の意味を掛け合わせて表現することが多い。例えば、地上から上げられる(三二節)も、十字架に上げられる受難、陰府から地上へ上げられる復活、天上へ上げられる昇天の意味合いを同時に込めています。
そのように考えると「私をこの時から救って下さい」も、この時から逃れさせて下さいというのが一義的な意味ですが、「この時のために来た」から立ち返って考えると、単にそれだけでないのでは?と思わせます。「この時から」の「から」は、別の訳も色々あります。例えば、パウロの言葉ですが「割礼ある者を信仰の故に義とする」。あるいは「異邦人を信仰によって義とする」。これを今日の箇所にあてはめますと「この時の故に救って下さい、この時によって救って下さい」となります。そうすると、この時から逃れると言うよりも「この時の中に入って、それ故、それによって、十字架の御業をしっかり果たして罪の贖いを解決して、それで救って下さい」という響きも出てくる。だから御名の栄光は、キリストのご受難の中でこそ現れる。
十字架での出来事を、主イエスは「私は地上から上げられるとき、全ての人を自分の元へ引き寄せよう」と表現しました。主イエスのご受難の中に現れる御名の栄光の中に、私たちを引き寄せて下さる。そう仰いました。

この言葉に先立って仰ったこともう一つ、今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。ヨハネ福音書は紀元九〇年代に記されたと考えられておりますが、紀元七〇年にローマ軍によってエルサレムは陥落し支配者は追放されています。まず、この事実を背景にヨハネは裁きを語っています。
そしてもう一つ、カルヴァンは、裁きの言葉を、ヘブル語の意味合いから改革と註解しています。「主イエスは神の国を樹立し始めたが、彼の死が世の秩序と十全な復興との真の始まりだった」。まずユダヤ教の支配者は実際には自分が神になった。だから不当にも主イエスを十字架に付けた。そしてローマ皇帝も自らを神とした。世の支配者が神となる本末転倒の無秩序を、主イエスは改革なさる。神が父として崇められ、イエスが御子として礼拝される、そういう御名の栄光への改革としての裁きの時です。
主イエスは、この栄光の現われのために十字架にかかられ、この栄光の中に、秩序の中に、全ての人を引き寄せて下さいます。

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