詩篇139篇23~24節
コリントの信徒への手紙一10章13節
今日は主の祈りの第六の祈願「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」の内、主に前半部分を味わいます。説教題を「試練と誘惑と」としました。今日は試練の方がです。神様は私たちがキリストに繋がるように試練を与えることはあっても、私たちが悪の世界に陥って神様から離れて行くようには誘惑なさることはありません。それが試練と誘惑の違いです。誰が私たちを試練や誘惑に誘い込むか、その結果、どちらの方向に引っ張られていくか、誘惑の方は次週の課題にします。今日の結論は、試練に遭っても主イエスから離れてはいけない、主イエスにしっかりと繋がるように試練を受けとめ試練を活かすことです。
試みや試練に遭いたいですかと問われれば、誰だって試練になど遭いたくないと答えます。ですから「我らを試みに遭わせず」と祈るのは当然です。でも、心の片隅でほんの少しだけ思う。「あの苦労知らずの奴に何が分かるものか」。人生というもの、苦労があって当たり前だ、むしろ苦労や試練があって人間は成長していくのだと、苦労や試練に意味を見出しています。それとも、苦労知らずの幸せな人に対するひがみでしょうか?
詩編一三九編では驚くべきことに試練を願うような表現があります。「神よ、私を究め、私の心を知って下さい。私を試し、悩みを知って下さい」(二三節)。試すという言葉です。人は試練に遭った時、思い通りにならなかった時に、自分自身が顔を出してきます。自分は何を思っているのか、自分の本音が出てくる。
日本語の「遭わせず」の言葉は、向こうからやって来る試練に遭わせないように、そうイメージすることが多い。けれども辞書を引くと、引っ張られるという意味もあります。試みが向こうからやって来るなら、こちら側は意識して身構え戦う姿勢をとることも出来るのですが、引っ張られる、気付いたら足元を掬われるような、そんなニュアンスがあります。
私を試し、悩みを知って下さい。ご覧ください、私の内に迷いの道があるかどうかを。試みに直面して、日頃意識していなかった本音が出てくる。自分中心で神様から離れることの方が、本音に近いという自分の姿が見えてきたりする。日頃そんなつもりではなかったのに自分はこんな人間だったのかと、そこに本当の悩みがあることに気付く。それで、どうか私を、とこしえの道に導いて下さい(二四節後半)。足掬われた私ですが、立つべき所に立てるように私を導いて下さいと祈ります。
そもそも私たちを試練に遭わせることを神様が為さるのだろうか。ヘブライ書一二章に、試練を神様の私たちへの鍛錬だという考えが出て来ます。
五節以下です。旧約聖書から引用しながらこう語ります。また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」。あなた方は、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなた方を子として取り扱っておられます。一体、父から鍛えられない子があるでしょうか。私たちを子として扱うその目的は一〇節「御自分の神聖にあずからせる目的」です。神が神であられる、その神聖です。その結果は一一節「鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」。鍛錬は最初は嫌だと思いますが、後になれば良かったと思う。そして実を結ぶようになる。頭で分かってはいるものの、鍛錬は嫌だと思ってしまう私たち、頭で分かっていることと現実の気持ちの両方の間にあって行ったり来たりしています。
今日のⅠコリント書も試練に遭うことを記しています。「あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず」。でも「試練と共に」ですから試練には遭う訳です。鍛錬としてということでしょうか。でも、試練に潰されて神様から離れて悪へと誘われないように「それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます」。私たち自身と言えば、試練に遭ったら潰されてしまう、神さまから離れてしまう。そういう不真実さを抱えている。でも、あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。ここで大事なことは、自分が真実か否かではない。私たちの不真実さを超える神の真実こそが大事です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道を備えていて下さいます。慰め豊かなみ言です。
ここでの課題は、その試練に遭った時に、如何に逃れる道を見出すか、単なる逃げの姿勢を推奨しているのではありません。試練に耐えられるようにですから、試練を避けて逃れるというのではない。試練の中で耐えられるように。でも耐えられるように逃れる道をも備えていて下さいます。微妙な聖句です。単に逃げるのではなく、耐える逃れられる道を如何に見出すか、これが課題です。
主イエスご自身は、どう逃れの道を見出されたのでしょうか。ルカ福音書二二章二八節、あなた方は、私が種々の試練に遭ったとき、絶えず私と一緒に踏み留まってくれた。弟子たちはこれを聞いて、主イエスの試練の時に自分たちが踏み留まって頑張ろうなんて考えなかったと思うのではないか。それどころか、主イエスがその時、試練に遭っておられたなんて気付かなかったかもしれない。ただくっついて従って来ただけだった。でも主イエスから見ると、試練の時に一緒に踏みと留まってもらった経験を感謝しておられます。主イエスでさえ、試練を一人で耐えるのは大変。弟子たちがいてくれることが有難かった。
主イエスでさえそうであるとするならば、私たちは尚更、一人では耐えられない。慰め、支え、祈り合う、共同体の友、教会が必要です。「このような時こそ、主イエスから離れないようにしようね」と力づけ合う、そういう共同体、信仰の友です。自分一人だったら、倒れてしまうか、試練から逃げる人生になってしまうかになるでしょう。
だから私たちが試練にある時、まず主イエスが私たちと一緒に踏み留まっていて下さいます。また、一緒に踏み留まってくれる信仰の友を与えて下さいます。ルカ福音書二二章三一節以下。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」。シモン・ペトロは試練に遭う。そのままでは信仰を無くし、神なき世界に誘惑されていく。「しかし、私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った」。主イエスが、踏み留まって祈って下さった。そして次にペトロ自身が一緒に踏みとどまる信仰の友となっていきます。「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
私たちは兄弟たちを力づけるのですが、その際に力づける自分自身が立ち直る経験を経ていることが不可欠です。自分は試練に遭っても負けない人間だからあなたを力づけてあげる、と上から目線で力づけるのではない。自分も主イエスに祈ってもらい、他の兄弟たちにも祈ってもらい、そのように力づけられ助けてもらった経験のある者として、そして今度は試練の中にある兄弟を覚えて祈り、力づけることが出来る。それが一緒に踏み留まるという事です。そういう共同体が教会です。
先週、「赦し給え」の主の祈りを味わいました。自分の力では償いきれない、赦してもらうしかないことがあると申しましたが、今日の所も同じことが言えます。自分の力では試練から抜け出せない、祈ってもらって支えてもらって力づけてもらうしかない、ということがあります。
試練に引き込まれることがある。踏ん張ってしっかり立っているようでも、ふっと足元を掬われる。何か空しくなって神様を信じても…と神様から離れてしまうその時、祈ってもらうしかない。それが逃れの道なのではないでしょうか。試練と共に耐えられるように逃れる道が備えられます。
最後に一言、主の祈りで「試みに遭わせず」と祈りますが、それでも試練には遭う訳です。この祈りは、試練に遭わないでいる人が、これからも遭いませんようにと祈ることも想定していますが、それ以上に、試練に遭う不安に直面し、更には、既に今、試練の只中にある人が、今日、これ以上試練に遭わせないで下さい、と祈る祈りでもあります。もう試練の中に入ってしまったからこの祈りを祈っても無駄だということではない。試練の只中にあるからこそ「試みに遭わせず」と祈ることが支えになる。これは、主の祈りにおける皆さんの体験でもあるのではないでしょうか。試練の中にあるからこそ、この主の祈りが真剣な祈りになっていく。主イエスは、神様から離れないで祈りなさいと、この祈りを教えて下さいました。このことによっても一緒に踏み留まっていて下さいます。有難いことだと思わずにはおられません。