サムエル記上16章5~13節
使徒言行録2章21節~26節
今日は一二使徒の選びに思いを深めつつ御言葉を味わいたいと思います。復活の主イエスにお目にかかった使徒たちは、十一人でした。そこに欠けていたのはイスカリオテのユダです。彼は既にこの世の人ではありませんでした。
そこでペトロが提案をします。「主イエスが私たちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、私たちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中から誰か一人が、私たちに加わって、主の復活の証人になるべきです」。一二人にこだわりました。一二という数は象徴的な意味があったからです。アブラハム―イサク―ヤコブの一二人の子どもたち、そしてイスラエルの一二部族を表す一二です。旧約のイスラエル部族の全ての民ということです。一一ではすべての民ではなくなってしまいます。
このことを新約時代になっても引き継ぐのが一二使徒で、そもそも主イエスが一二人を使徒として選ばれました。主イエスが「すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ二八章)と言われた事柄と任務を受け継ぐには、すべての民を弟子とするのですから一二使徒でなければならなかった訳です。一二という数字には、すべての人が選びと救いの中に入れられるべきだという願いと、人間の願いを越えた御心があります。因みに、黙示録に十四万四千人という数字が出てきます。あれは一部の人たちが言うように十四万四千人しか救われないという限定する数ではなく、旧約の一二部族と新約の一二使徒を掛け合わせて一四四、その千倍で、その方向性は全世界の人々の救いを指し示している数字です。
使徒言行録一章で人々がしたことは十二人目について主の選びを尋ね求めることでした。
サムエル記上一六章、サムエルはサウルに代わる次の王を立てねばならなくなりました。誰が相応しいのか。六節以下、彼ら(ダビデの父エッサイの息子たち)がやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。そうしたら、しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と仰いました。そして息子たちに順々に会うのですが、主がお選びになると思える人はいません。もう一人末の子がいました。一二節、エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ」。主は血色がいい、目が美しいという外見で選ばれたのか、心を見て選ばれたのか。血色がいいというのは、ほっぺたがリンゴのように赤くまだ幼い。目が美しい、赤ちゃんの目はきれいで、これもその幼さを引きずっているということです。この文脈では否定的な概念です。およそ子どもっぽくて、とてもじゃない、王様になんか無理だ、と判断したくなるということです。
では主は、何をご覧になったのか。ダビデの心か。優しい、おおらか、そういう彼の性格のことか、政治判断できる知能のことか……。ダビデも主のみ前には弱かった。あのバト・シェバの事件に代表されるような、それゆえ悔い改めて主に赦して戴くことを必要とした。そこに信仰の必要が明らかになる、信仰の心です。そして、その都度、生涯に亘って聖霊のお支えと導きを必要とした。だから一三節、サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来(その日だけでなくいつもということです)、主の霊が激しくダビデに降るようになった。そういう信仰の心が必要で、主はそこをご覧になりました。
誰が一二人目の使徒に相応しいのか…。本来なら主イエスに決めてもらうしかない。だから、御心を尋ね求めて、くじを用意しました。主イエスが一二使徒をお選びになるとき、くじは引かずに代わりに祈りを捧げました(ルカ六・一二以下)。その頃、イエスは祈るために山に行き神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から一二人を選んで使徒と名付けられた。祈って祈って夜を明かし朝にまでなりました。
何故祈らなければならないのか。それは、人間的に言えば、使徒として相応しい人は一人もいなかったからです。一番弟子のペトロでさえ、主イエスを三度も否んだ。他の弟子たちも皆、主イエスを見捨てて逃げ去った。イスカリオテのユダは、お金と引き換えに主イエスを売り飛ばした。相応しいどころか、赦してもらうしかない。十字架を必要とする一人一人。主イエスはそのような一人一人の名前を挙げつつ、彼らを十字架の恵みの下に見出し祈られた。そして祈りは朝にまで及んだ。
そして私たち、キリスト者も同じです。また教師・牧師が立てられることも同じです。何か偉いからではない、立派だからではない。十字架を必要とする一人一人です。信仰が成長するという言い方がありますが、信仰が成長すると十字架が要らなくなるほど立派になるということではないはずです。むしろ益々十字架が必要だと分かって来るということではないですか。そのようにキリスト者として、教師として立てられていく。その時、実は私たちの知らない内に、主イエスが祈っていて下さった。ある人が面白いことを言いました。主イエスがペトロのために二時間祈って下さったとしたら、あなたは一時間で足りるんですかと。何時間必要なのでしょうか。更にキリスト者になる最初だけではない。それからも益々祈ってもらわなければならない。主イエスは、私たちのためにも必要な十字架を見据えて、祈られた。
一二人目を選ぶ時、主イエスは既に天に挙げられておりましたから、神の右の座から執り成しの祈りを捧げておられます。そう信じます。初めも今も祈って下さる主イエスを信じる信仰が必要です。
だから一二人目を選ぶにあたり、人々は祈った。バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈りました。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示し下さい。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです」。任務を継ぐ。伝道の任務に就いて仕事をするということでしょう…。でもまず、十字架を必要とする自分たちであること、贖罪の十字架の恵みを与えて下さる主イエスのこと、復活に於いて罪の赦しが明らかになったこと、それを信じる信仰を受け継ぐことが大事です。任務を継ぐのは福音を語ることですから、福音の内容を信じる信仰を受け継ぐことが、その中心にある訳です。
福音の信仰を受け継ぐために大事なことがあります。もう一度二一節。「主イエスが私たちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、私たちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中から」と主イエスの人格に触れていることを求めています。
何故これを求めるのかというと、私たちの信仰は、どこから生じるのか考えれば分かります。信仰は、私たちの内側から湧いてくる内なる信仰ではありません。どれほど自分が祈っても、信仰は内側からは湧いてきません。信仰は信心ではないからです。信心というのは、信じる自分の心です。キリスト教は信仰です。信じて仰ぐと書きます。仰ぐ相手がおられます。だから私たちの信仰は私たちの中から湧いてくるのではなく、信じて仰ぐ相手から与えられるものです。だから、いつも一緒にいたということが必要なのです。主イエスを見、主イエスから聴き、主イエスに触れて、主イエスの人格、御業、生涯から与えられる信仰、そして主イエスを御子と信じる信仰です。
教会は信仰告白を必要とします。内なる信仰ではないからです。主イエスがおられ、主イエスを見、聴き、触れ、人格に触れた使徒たちの証言があり、それが聖書となり、聖書を読む枠組みとしての信仰告白がある。信仰告白を枠組みとする説教があり、説教を聴き信仰が与えられます。もし自分の信仰と言うなら、信仰さえも弱い。その確信も弱い。ですから、あなたはこう信じなさいと主のご命令が必要です。どれ程私たちが弱くてフラフラしても、この信仰告白の語る通り、これを信じればいいのだと言って戴ける。そこに聖霊の支えがあって、私たちは自分の信仰を全うしていく。外から与えられる恵みとしての信仰です。
主イエスに出会った一二使徒、そこに教会が生まれ、聖書が編纂され、信仰告白が整えられ、私たちに信仰を継がせるものとなります。聖霊の導きの下、自覚的に信仰を受け継いで、私たちはキリスト者として生きて行きます。四月から日本基督教団信仰告白を礼拝で告白しています。まだ慣れないかもしれません。でも教会の信仰告白あっての自分の信仰です。キリストと自分がここで繋がり出会いが起こります。信仰告白文は単なる文章ではありません。ここから絶えず私たちの信仰が与えられ整えられる大切な生きた文章です。