日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2026年2月22日 説教:森田恭一郎牧師

「怒りから、憐れみと愛、恵みへと」

イザヤ 五・二五
エフェソ二・一~七

今日の聖書個所は、一~三節と四節以下で内容が変化しています。一~三節は、以前の自分たちは死んでいた。四節以下は、しかしそういう私たちを神が憐れみと愛によって生かして下さった。このように内容が変化しています。それにしても、死んでいた、という言い方は、強烈な言い方です。もちろん肉体の死ではありません。放蕩息子の譬え話でも、死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか(ルカ一五・三二)と神様の御前から失われている姿が死んでいた、ということです。そしてそれを死んでいたのに、と言っている訳です。

そして死んでいた者から生かされた者への変化の変わり目は、直接には触れてはいませんが恐らく、洗礼がその変わり目にあります。罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし(五節)の表現が洗礼を思い起こさせます。洗礼を受けて、死んだ者から生かされた者への変化、その出来事が起こっているということです。

 

洗礼志願者からよく発せられる問いかけがあります。「私は洗礼を受けるのに相応しい者になれるでしょうか」という問いです。長老会で洗礼の試問会がありますので、余計にそう考えてしまいがちです。この問いを抱くというのは、三節までの内容を受けとめているからです。以前は自分の過ちと罪のために死んでいた。過ちと罪を犯して歩んでいた。以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していた。生まれながら神の怒りを受けるべき者だった。そうであるからこそ、こんな自分は洗礼を受けるのに相応しい者になれるのか、自信がないと思えてしまう。このような思いは真面目な誠実な所から出てくるものですが、それは、三節までと四節以下の間に、自分が相応しい者になる、という一段階の文面を入れようとしていることになります。

放蕩息子の譬え話で言えば、父の所に戻ろうとして息子が考えた反省の言葉は同じことを言っています。 「私は、天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にして下さい」(ルカ一五・一八~)。敢えて言えば自分勝手に反省していて、その結果、自分を息子から雇人にしている。

これは父が望む悔い改めではありません。父はそんな反省を蹴散らすようにして、一方的に息子を息子として迎え入れ、祝宴を開いて喜んだ。

 

聖書は、これが今日の主題なのですが、三節までの所から、途中、何もなしに四節以下に移る。洗礼を受けるために、例えば、品行方正な人になることが必要だとか、聖書の学びをもっとしておかなければならないとか、何かしら修行を積まないといけないとか、立派に生きられる人にならないといけないとか、あれやこれやと考えます。そしてこれらのことは、真面目な誠実な態度ですが、結局は神様抜きに、自分で生きるという自分に軸がある。

何かで読んだのですが、何かを始めるに際して全部が整ってから始めようとする考えがあるが、そのように考えると殆どの人が始められないままに失敗する。まずは始めながら修正していけばいいのだ、という訳です。洗礼のことでなくても、同じことがいえるのかもしれません。

 

四節以下で聖書が語るのは、ただ修正すればいいということではありません。それも自分の努力の自分軸の話です。神なしの自分軸は結局、死んだままです。そうではなくて、神の側に軸がある。神の憐れみの中に、神の愛の中に軸を移すことです。飛び込むことです。それは人間の側の努力の話ではなく、神の恵みです。死んでいた自分から生かされた自分への移行は軸の移行です。言い換えるとキリストへの軸の移行です。ですから、キリストと共に生かし、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に就かせ、キリスト・イエスにおいてお示しになった慈しみ(四節以下)とキリストが繰り返されます。

そして、あなた方の救われたのは恵みによるのです、とわざわざ念押ししている。エフェソ書のその思いの強さを受けとめたいと思います。恵みとは人間の側の良し悪しに関係なく一方的に与えられるプレゼントです。手柄を立てて与えられるご褒美ではありません。憐れみ、愛、救い、慈しみ、エフェソ書が言葉を尽くして語ろうとするキリストの素晴らしさは、全て、プレゼント、恵みによります。そして恵みをもたらすために、キリストは命をささげて下さった。イザヤ書のしかしなお、主の怒りはやまず、御手は伸ばされたままだ(イザヤ五・二五)。この御手は、裁きの手としてイスラエルに臨む。その御手を神はキリストに伸ばし、私たちの過ちと罪に対する裁きを、私たちの代わりに、キリストにもたらし、キリストに負わせたのでした。それで私たちは救われました。

 

それにしても、もう一度繰り返しますが、死んでいた、という言い方は、強烈な言い方です。先ほどは、もちろん肉体の死ではありません、とお話ししましたが、肉体の死も考えて良いかもしれません。病などで人生の終わりに直面している場合でも、死から命への移行を視野に入れてよいのではないでしょうか。何故なら、恵みの出来事は、私たちをキリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さいました(六節)、という私たちの出来事だからです。これは、キリストの十字架の体の死と体の復活において起こりました。

キリストが死んで復活されたのですが、そこでは同時に、私たちの死と復活が既に起こっています。六節が語る私たちの復活は、十字架を経て既に起こった過去の出来事です。キリストから見ればそうなのです。キリストの十字架において、神は私たちをお裁きになって、私たちは(地上に生まれる前に)既に死んだ者となった。キリストの復活において神は私たちを(地上にあってはまだ死んでいないのに)復活させ、私たちは既に生かされている者となった。キリストと共に起こった私たちの死と復活は、地上の肉体の死を越えて、キリストが共におられることによって事実となった永遠の命です。キリストは今、神の右の座に着かれています。そのキリスト共にいるという永遠の命に与るようにと、私たちをも天の王座に着かせて下さった! これもまた恵みによります。天にあってはプレゼントされています。

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