詩編 六三・二~六
エフェソ一・二二~二三
今週の主題は、「教会はキリストの体」です。先週は、「キリストは教会の頭」でした。キリストは教会の頭であられるだけではありません。キリストは全世界の頭として居ましたもう。先週味わいました詩編に、主よ、私たちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。御手によって造られたものを全て治めるように、その足もとに置かれました。(詩編八・二、一〇、七)とある通りです。そしてエフェソ書では、神は、全ての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく。来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、全てのものをキリストの足下に従わせ(エフェソ一・二一~)と語っています。このようにキリストは全てのものの上にあり、全てのものはキリストの足下に従うものとして位置づけられています。ただ、そのことを自覚しているのは教会だけです。エフェソ書は続けて、神は、キリストを全てのものの上にある頭として教会にお与えになりました。頭であるキリストを教会に与えたのです。驚くべき言葉です。だからこそ、教会はキリストが神の右の座に着いておられる天を仰ぐことを知っています。
私たちも、たとえ八方塞がりになっても天を仰ぐことが出来ます。実に幸いなことです。今日の詩編も、取り巻いている状況は大変厳しい。私の魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、私の体は乾ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています(詩編六三・二)。八方塞がりなのに、今、私は聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄えを見ています。あなたの慈しみは命にもまさる恵み。私の唇はあなたをほめたたえます。命のある限り、あなたをたたえ、手を高く上げ、御名によって祈ります(同三、四節)。厳しい状況にあるのに、両手を高く上げて祈る。塞ぎ込んでいません。私の魂は満ち足りました。乳と髄のもてなしを受けたように。私の唇は喜びの歌を歌い、私の口は賛美の声をあげます(同六節)。聖所に集う人たち、喜んでいます。互に顔を合わせれば笑顔になり、笑い出すかも。詩編も、聖所、神殿、私たちの教会の礼拝の幸いを語っています。
このように天に向かってキリストを仰ぐことを知っていることが、いわば、キリストの体であることでもあります。キリストの体であるからキリストを仰ぐことが出来ます。
それにしても不思議な言葉です。教会はキリストの体であり、全てにおいて全てを満たしている方の満ちておられる場です(エフェソ一・二三)。キリストは全被造物、全世界の頭として、全てにおいて全てを満たしている方です。そのお方が満ちておられる場がある。それが教会、キリストの御体だというのです。驚きというか不思議です。何故かというと、目に見える教会の姿があります。全世界の教会史をちょっと紐解いただけで、宗教戦争をはじめ、争い事ばかりしている。キリストから離れた余りにも人間過ぎて、罪人の集まりだとつくづく思うような教会の姿、それをどの教会も多かれ少なかれ知っているからです。河内長野教会だって例外ではないはずです。人間の集まりだからです。
でもこの教会がキリストの満ちている場、キリストが充満している場、キリストの御体です。そしてキリストが満ちているこの充満、キリストの体であるということは、現実を見ることから見えてくる実際を超えて、信じることから見えてくる信仰の世界です。教会を信じるのです。「我は教会を信ず」と信仰告白は私たちを教会を信じる信仰へと私たちを招いているではありませんか。
洗礼を受ける時、教会はこの信仰を告白することを求めます。実際の所、十字架にかかり死人の内から甦られたイエス様を自分の救い主として信じますかと問われて、そのキリスト信仰を告白し、教会の礼拝に出席し、聖餐式を大事にしていきますと応えられれば、それで十分です。いや、そう言えるのも聖霊の導きによります(Ⅰコリント一二・三)。それで洗礼は受けられます。
洗礼の時点で教会を信じるというのは、殆ど分からないのではないでしょうか。でもこの時点で分からなくても、不思議だなと思って下されば、不思議はワンダーですが、教会生活を続ける中で不思議だなと思い続けていくと、いつかワンダフルになります。教会に繋がっていて良かったと思える。信仰の成長を実感するのは、何があっても教会を信じる事が出来るようになったと思える時です。そうなるためには教会に繋がって教会から離れない、これが教会を信じることへの道筋です。そして教会に繋がっている中で、頭なるキリストを見上げ、頭なるキリストに向けて成長していきます。キリストの体なる教会にいるからです。
教会から離れずにいて、そこにあるのは礼拝です。礼拝では、キリストの十字架と復活の説教を聴き、聖餐に与り、赦しと悔い改めが起こり、賛美と感謝をささげる。祈りつつ天を仰ぐ。そこから一週間の生活が始まる。その積み重ねです。その積み重ねの中から、礼拝でキリストがいらっしゃると思い、日常生活の中でキリストを思い起こすようになる。これがなかったら、神なんかいるか、キリストを信じたところで世界は何も変わらない、と思っているままかもしれません。
教会堂の中心に聖餐卓があります。聖餐卓から聖餐の恵みを分かち合います。聖餐式を執り行わない礼拝でも、聖餐卓が中心です。説教は、聖餐の恵みを直接間接に語るのが、説教の本質です。ですから説教だけの礼拝でも聖餐卓が中心です。「これは私の体、これは私の血潮」とキリストが言われたパンと杯のワインを戴いて、素朴に言うと、この聖餐において聖霊の導きの下、私たちはキリストの体を味わいます。
教会を信じる事と重なって、聖餐を信じるとも言えます。信じる事がなければ、ただのパン、杯のワインです。小さなパンを食べたところで何の腹の足しにもなりません。でも信じる者にとっては全く違います。聖餐も不思議です。ただのパン、ただの杯であるのに、不思議さを思い福音を信じながら聖餐に与ると、十字架が自分のためにあると十字架の出来事を想起し、天の国における甦りのキリストの食卓に自分が招かれていることを待ち望むことが出来ます。そのように信じる事が出来る私たちとされています。
その説教と聖餐の礼拝の時、私たち一人ひとりがキリストの体に繋がっているし、キリストの体の中に入れられています。詩編も語ります。いかに幸いなことでしょう。あなたに選ばれ、近づけられ、あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって、私たちが満ち足りますように(詩編六五・五)。喜んでいます。楽しんでいます(詩編一一九・一六参照)。お互いに顔を合わせれば笑顔です。今日は午後、大阪藝大の学生の皆さんにより教会寄せを企画していますが、
落語で大笑いする。教会寄せは信じる者にとっては、礼拝の喜びが重なっているものです。傲慢ではありますが、落語だけの笑いを超えて大きくなる。キリストの体に繋がっている中での笑いです。
併せて、聖餐の恵みを聴き味わう礼拝がささげられる度に、教会もキリストの体である教会として、その都度新たに生じている、キリストの体に成っています。教会はキリストの体であり、全てにおいて全てを満たしている方の満ちておられる場です。