日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2026年2月1日 説教:森田恭一郎牧師

「頭のキリスト、今ここに」

詩編  八・二~一〇
エフェソ一・二二~二三

本日の中心聖句は、神はまた、全てのものをキリストの足もとに従わせ、キリストを全てのものの上にある頭として教会にお与えになりました(エフェソ一・二二)。この聖句を味わいます。今日の主題は、キリストは教会の頭である。次週は、教会はキリストの体である、を主題とします。

 

「頭」という言葉で言い表したいのは、キリストを全てのものの上にある頭として、ということですから、キリストは全てのものの上にある、ということです。同じ事を、神は、全ての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく。来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました(エフェソ一・二一)とも表現しています。全ての支配、権威、勢力、主権というのは、まずは、当時のローマ帝国のこの世の政治権力ということです。そして、全ての上に対して全てのものをキリストの足もとに従わせ、とつまりキリスト以外の全てのものはキリストの足下に、と上と下で対比しています。本当に支配し、本物の権威、勢力、主権は、上にあるキリストにある。そしてこの世の支配、権威、勢力、主権というのは、全てキリストの下にあるのだ、と言っている訳です。

 

全ての支配、権威、勢力、主権について、宗教改革者カルヴァンは、当時のカトリック教会が陥っていた、天使崇拝や聖人崇拝のこととして語っています。

天使が出てくるのは、反対に悪魔を経験するからでしょうね。日本語にも魔が差すという言い方がありますが、私たちは、自分の中にも人間世界の中にもある悪や闇の力を経験しています。自分の頭ではこれはいけない、と思いつつも、それをコントロール出来ない自分の弱さを知っています。日常の経験です。それが強くなると依存症になります。様々な辛い経験があります。あるいは不条理も私たちを苦しめます。人類は何故、戦争するのか、せめて核兵器を根絶することも出来ないのか。頭では分かっているはずなのに出来ない。

個人的なことであれ社会的なことであれ、そこに悪の力を思ったりする。本当は、人間の弱さ、罪深さの故なのですが、悪魔のせいにして責任転嫁をしたくなるのも人間の姿です。この世の悪は悪魔のせいではありません。聖霊の導きを拒む人間の罪の故です。

この悪魔の反対に出てくるのが天使です。天使が堕落したのが悪魔であるなどと言われたりもします。議論にはまり込むと、無意味な天使論、悪魔論の議論のための議論になるで気をつけたい。

 

皆さんは、天使はいると思いますか? 悪魔もいると思いますか? 両方とも聖書に出てくるではないか、と思われるかも知れません。それなら実在するものとして存在しますか?

聖書は、神様の啓示を受ける経験を、天使の働きとして表現している。悪魔はその反対で、神様の御心を拒む姿を、聖書は悪魔の働きとして表現している。あくまで文学的な表現です。それを文字通り実在する者として考えるなら、それは神になってしまいかねません。そしてその分、キリストから離れていきます。近代人として、冷静に考えたい。近代になって神は死んだ、と信じない人が増えた。それでキリストもただの人間で、聖書に書いてあるのは神を表す単なる文学表現だ、と考えるかもしれません。でも、キリストは歴史に実在したお方です。ナザレのイエス、十字架におかかりになったイエス、その方を「神の御子、主イエス・キリスト」として聖霊の導きを戴いて私たちは信じます。それは、歴史事実になっていない天使や悪魔の文学表現ではありません。

 

天使や悪魔を実在のものとして信じないとしても、私たちも、色々なものを頼って、いつの間にかそれらを自分の神にしてしまっているということは幾らでもあり得ることです。お金、地位、地縁や血縁、地域の人間関係等々、自分が頼るものは様々あります。

私たちは天使崇拝や聖人崇拝はしていないと思っていますが、日本文化の中で、祖先崇拝はあります。家に戻れば仏壇や神棚があって、毎日手を合わせることはキリスト教徒になっても意外と多いのではないでしょうか。家族の中でキリスト教徒が自分一人であると、舅や姑への配慮としてせざるを得ないこともありますし、自分が年老いて独居になっても、配偶者や家族への思いがあって仏壇の前で手を合わせることが身についていることも多いと思います。しかもそこに不自然さを感じない。当然のことのように自然と手を合わせてしまう。キリスト信仰と不思議と両立している。福音と諸宗教の関係について、カトリック教会は諸宗教を福音への準備段階のものとして位置づけています。この場合、福音を信じるに至ったなら、それまでの宗教から離れると理解されるはずですが、必ずしも順序通りではない。これはおかしいとただ否定することは簡単ですが、解決にはなりにくいのではないでしょうか。その上で、真の神はキリストのみ、私の「頭」はキリストのみ、これを十分に弁えることを、課題として自覚したい。自覚すれば、自覚しないのに比べれば、聖霊の導きの下、何か変化が起こり得ます。

全ての支配、権威、勢力、主権、その内容が何であれ、全ての支配に思いを寄せる分、キリストから離れていくことになりかねない。カルヴァンはエフェソ書に基づいてそう注意を喚起します。

 

さて詩編八篇は、大自然の力を前に、主よ、私たちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます、と神をほめたたえています。その大自然の中に生きる人間の、自分の小ささに思いを馳せています。あなたの天を、あなたの指の業を、私は仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めて下さるとは。人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みて下さるとは。

人の子、詩編は私たち人間のこととして語っていますが、初代キリスト教会はこれをキリストのこととして読みました。神に僅かに劣るものとして人を造り、尚、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものを全て治めるように、その足もとに置かれました。キリストのことですね。全世界の頭としてキリストは居ましたもう。もう一度、主よ、私たちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。キリストが全世界の頭として居ましたもう。

 

終わりに、エフェソ書に戻って味わいたい言葉があります。キリストを全てのものの上にある頭として教会にお与えになりました。頭であるキリストを教会に与えた、というのです。驚くべき言葉です。それで教会はキリストの体、とも言われる訳です。私たちは教会について思い浮かべることは何でしょう。教会も人の集まりですから、歴史に於いては分裂が起こったり、お互い同士のことで躓いたり、色々ある訳です。

でもエフェソ書は、頭であるキリストを与えられた教会と語ります。全てのものの上にあって、神の右に坐したもうキリストが与えられている。だから、教会と教会の私たちは、天の、神の右に坐したもうキリストを仰ぐようにと招かれている。詩編はあなたの天を、あなたの指の業を、私は仰ぎますと語りますが、私たち教会はキリストとその御業を仰ぎます、と告白出来る。仮に、自分が何か困難の中に八方塞がりになっても、天に顔を向け、キリストを仰ぐことが出来る。それは、この教会と私たちにこそ頭なるキリストが与えられているからです。

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