創世記12章1~4a節
ルカによる福音書1章35~38節
今日は、創世記一二章以下の神様がアブラハムに約束したアブラハム契約を中心に、待降節にあたって、主の約束を待つという事を巡って説教します。その契約は、今日の説教で必要な範囲で言いますと、土地と子孫を与えるということです。そしてその意味する所は、「私はあなた方の神となり、あなた方は私の民となる」という内容です。
アブラハムはイスラエルの民の信仰の父と言われ、その子孫から後のイスラエルの民を形成していきます。その始めの出来事が一二章一―三節の主の語りかけです。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る』」。
アブラムは、主の言葉に従って旅立ちますが、何故、それまで住んでいた生まれ故郷、父の家を離れて、神様が示す地に行く事が出来たのか。その生まれ故郷は、ウル。月を神様とする土地柄でした。彼は、月を神様として生きることに疑念を持った。「そうじゃない、何か違うぞ。生涯をかけて信じて歩む本当の神様は月なんかじゃない」、七五歳になっての彼の確信です。ならば本当の神様が分かるかというと自分には分からない。
アブラム、人間の側の事情や思いは何であれ、神様の側から言えば、とにかく神様が彼を選ばれたのです。口語訳聖書は「時に主はアブラムに言われた」と記します。その「時に」アブラムはハッと気が付く、何かストーンと腑に落ちる、ここから旅立つことが自分の人生にとって不可避であると納得する。何故アブラムなのか、それは当の本人にも分かりません。敢えて言えば、神様の聖なる契約の意思決定があったということしか言えない。それは、示される土地の約束と子孫の約束。また生き方としては「祝福の源」。自分の存在と歩みが他者の祝福になる、という生き方です。
アブラムが旅立ったのは七五歳の時。でも、その後繰り返し疑いました。特に年齢の事もあり、自分たち夫婦から子孫が増えることについて焦り、待てなかった。それで、まだ若い召使の女性から子孫を得ようとしたりもしました。でもそれは、神様の聖なる意思決定にそぐわないものでした。
神様の聖なる意思決定に直面すると戸惑いが生じます。例えば牧師になるということ、戸惑いと不思議を覚えます。この聖なる意思決定の自覚を召命と言う訳ですが、召命はしかし、牧師の場合だけではありません。皆さんも夫々、仕事や生き方に召命があるのではないですか。ここから出て行きなさい。場所だけではない。そのあなたの生きるこれまでの生き方から出て行きなさい。私が示す所へと。そしてここへ来なさい。この役割を担いなさい。教会に連なりキリストを信じることがもう召命です。神様のこの聖なる意思決定に直面した時、誰であれ「この私が?」と思うものです。でも神様の約束です。世間とただ同じように生きるのではない何かが起こる。疑いつつ、でも祈りながら確かめつつ、導かれて神様の約束へと一歩を踏み出す。この事態は、他の人が口出し出来ることではありません。神様の聖なる意思決定に導かれて歩み出すことがその人自身の固有な良心と人生を形成していきます。
神様の約束を待てず、神様の言葉を疑う疑いの思いがアブラハム夫妻の心に繰り返し顔をのぞかせてくる。その繰り返しの途中の記事を省きまして一七章一節以下「アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。『私は全能の神である。あなたは私に従って歩み、全き者となりなさい。私は、あなたとの間に私の契約を立て、あなたをますます増やすであろう』。アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。『これがあなたと結ぶ私の契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。私は、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう』」。そして土地と子孫の約束を更に言い換えてこう約束、契約を改めてお立てになります。「『私は、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる』」。この「私はあなた方の神となり、あなた方は私の民となる」、これが旧新約聖書の「約」、契約の内容です。
でも、まだ疑う。一七節、「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、秘かに言った。『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか』。アブラハムは神に言った。『どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように』。神は言われた。『いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う=喜びとしての笑いです)と名付けなさい。私は彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする』」。
この後一八章一二節で妻のサラも、神様の約束を馬鹿にして秘かに笑う。天使と思われるような三人がアブラハム夫妻を訪ねます。「彼らの一人が言った。『私は来年の今頃、必ずここにまた来ますが、その頃には、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう』。サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうに無くなっていた。サラは秘かに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今頃、私はここに戻ってくる。その頃、サラには必ず男の子が生まれている』。サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。『私は笑いませんでした』。主は言われた。『いや、あなたは確かに笑った』」。サラもここで神様の聖なる意思に直面して恐れを感じます。この後二一章になって約束の子、イサクが誕生します。
アブラハムとサラは、ここまで繰り返し主の言葉を疑いました。それに対し、主なる神様は、繰り返し、彼らを御自身の契約へと連れ戻します。
ルカ福音書一章二六節以下、天使がマリアに現れます。受胎告知です。でも「マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに』。天使の言葉に疑義を唱えます。すると「天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない』」。天使はマリアを全能の神の約束の言葉の中に連れ戻します。そこで「マリアは言った。『私は主のはしためです。お言葉通りこの身に成りますように』」。
「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。これは、マリアだけに与えられた使命であり選びです。他の人にはないことです。ただこの記事から思いを広げていきますと、あのアブラハム夫妻にとっても、生まれてくるイサクは、特別の子でした。もちろんマリアのように神の子、救い主ではありません。でも神様の聖なる決定の中で生まれてきた、その意味で、聖なる子です。
皆さんは今、信仰の告白をしている者としてこの教会にいます。求道者の方はまだ信仰告白と洗礼を受ける所にまで至っていませんが、教会に集っています。これらのことは、聖霊の導きによるだと私たちは信じます。皆さんも聖なる者、あるいはそこへと招かれているお一人おひとりです。
Ⅰコリント七章一四節「信者でない夫は、信者である妻の故に聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫の故に聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなた方の子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です」。パウロは驚くべきことを言っています。未信者の人は信者と夫婦になっているなら聖なる者だと。そしてその子どもも聖なる者だと。
夫も妻も、そんなことないよと秘かに笑っていいのでしょうか。また自分の子どもが既に聖なる者であるということを秘かに笑っていいのでしょうか。いやたとえ笑ったとしても、それで聖なる神様の意思決定は変わりません。何故ならキリストが皆さんを聖なる者とするために十字架にかかられたからです。
あれだけ繰り返し疑ったアブラハムも、信仰の父とされている。皆さんもまた、繰り返し、神様が、皆さんを聖なる者とするご自身の意思決定の中に、そして神が皆さんの神となり皆さんはその民となる、その契約の中に立たせて下さっておられます。待降節に思い深めるべき事柄であります。