ヨブ記 一・二〇~二二
エフェソ一・一一~一二
神様はご計画をお持ちです。それは秘められた計画(エフェソ一・九)で、その内容は、こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものも一つにまとめられるのです(エフェソ一・一〇) というのですから、壮大なご計画です。キリストのもとに一つにまとめられる。二週間前の説教では、信仰を共にしていない夫婦、親子、家族、友人であっても、一つになる希望を語りました。この地上の営みに於いて何があろうとも、最終的には神様のご計画が実現するのだ、という確かな約束を語っています。私たちはそのご計画を信じて良い。
今日の箇所では、そのご計画は私たちにも及んでいることを強調しています。キリストに於いて私たちは、御心のままに全てのことを行われる方のご計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました(エフェソ一・一一)。私たちは約束されたものの相続者であるというご計画です。約束されたものとは、キリストのもとに一つにまとめられること、その希望です。
希望と言われると「何だ、希望か」と捉え所の無い空しいものに思えるかもしれません。でも聖書は希望を力強く語ってやまない。今日の箇所も、以前からキリストに希望を置いていた私たち (エフェソ一・一二)と語っています。私たちは希望を持ち続けます。パウロもローマ書で断言しています。希望は私たちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです (ローマ五・五)。
そこで今日は改めて、希望を持つ力強さに思いを向けたいと思います。旧約聖書からヨブ記を読みました(ヨブ記一・二〇~二二)。 ヨブは突然、財産家族を失い、夫婦だけになって絶望に見舞われたに違いない。けれどもヨブは「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と言って、神を非難することなく、罪を犯さなかったのでした。何故、このような時にも不信仰に至らなかったのだろうか。それは、不条理にあっても神がおられること、全ては神の御手の内にあることに希望を置いたからです。ヨブ記は、この希望を持ち続ける信仰の戦いを書き綴っていると言えます。
次にヨハネ福音書から、カナでの出来事の記事(四・四三~)から希望を巡って考えたい。カファルナウムにいたある父親が登場します。息子が死にかかっている。主イエスがカナに来られたと聞きつけて、出掛けて行きます。カファルナウムからカナまで直線距離で三〇キロメートル。実際の道のりはそれ以上あったことでしょう。八時間位はかかる距離です。カナの町に着いて、きっと「主イエスはどこにおられますか」と尋ね回って、やっと主イエスにお目にかかることが出来た。早速、カナからカファルナウムまで下って来て息子を癒して下さるように頼んだのでした。すると主イエスは「あなた方は、しるしや不思議な業を見なければ決して信じない」と言われました。あなたは信じるか? 信じなさいと信じる事へと招かれたのでした。でも父親は「主よ、子どもが死なない内に、おいで下さい」と頼み続けます。すると主イエスは「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われたのでした。キリストにあっては神様のご計画は実現している。
こう言われて、父親は、驚くべき事に、イエスの言われた言葉を信じて帰って行ったのでした。父親にとっては信じるとは希望を与えられることです。そして、希望に押し出されるようにして、希望を携えて、帰りの道のりを急ぐ。希望だけが父親の道を進み行く力となりました。そしてその途中、出迎えの僕たちがやって来て「昨日の午後一時頃に熱が下がりました」と報告してくれたのでした。当時、日が沈むと日が翌日になりますので昨日。その時刻は、主イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻でした。それを知って彼もその家族もこぞって信じたのでした。
家族も信じたとありますが、それは熱が引いたときではない。夜になって父親が戻ってきて、主イエスのお言葉を伝え聞き、その時点で信じました。熱が引いたのを目の前にしながら、それだけでは信じる事にならない。キリストの言葉を伝え聞いてこそ信じました。
何を信じたのか。希望が自分たちを欺くことはなかったということ、そしてあの時、愛を以て御言葉を宣言された主イエスを信じた。思えば、父親が主イエスの元に出向いたのも、家族が父親を送り出したのも、藁をも掴むような一途の希望を携えていたからです。父親が帰路についたのは、御言葉を戴いて希望を確かにしたからです。かすかな希望を抱くことから確かな希望を与えられることへ変わりました。
そして改めて、父親も家族もこぞって信じた。主イエスに感謝をささげ、エフェソ書の表現で言えば神の栄光をたたえる(エフェソ一・一二)に至りました。それは、死ぬばかりだった息子の熱が下がったからということもあったでしょう。でもそれ以上に、希望が欺かなかったからです。これは、キリストに於いて御心のままに全てのことを行われる方のご計画でした。そのご計画の中に、この家族は招かれていたのでした。
河内長野教会もまた、神のご計画の中に招かれ、これを信じて、神の栄光をたたえます。一二〇年間守られてきました。現実を見れば課題は沢山ある。けれども神様のご計画の希望は揺らぐことはありません。