詩篇139篇7~12節
ルカによる福音書7章11~17節
本日は召天者記念礼拝として、ご遺族の皆さまも多く出席された中で、共に主イエス・キリストに礼拝を捧げることが出来ますことを感謝申し上げます。皆様の上に祝福をお祈り申し上げます。
人がその地上の人生を終えるということはその人にとって大きな出来事です。誰もが等しく迎える事でありながら、生きている限り誰もが自分の事として経験することは出来ない。またそのご家族を始め親しくしておられた方たちにとりましても、一人の親しい者と地上の別れをしなければならないということは大きな出来事です。でもここに集う私たちは、親しい者に先立たれるにせよ、自分がその時を迎えるにせよ、主イエス・キリストの下にお委ねすることが出来る。今日はこのことを信じて、キリストの御名をたたえるのであります。
時代を越えて人は、人類は、人が最期を迎えるという事を神秘的な事として、大事に受け止めてきました。そして今日の私たちも、家族が亡くなり葬儀となれば、仕事も、学校も、忌引きとして公に休みます。友人たちも他の何よりも優先して時間をやりくりして葬儀に集います。死を悼みます。今日のルカによる福音書は、葬儀、葬列の場面を記しています。「ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出される所だった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた」。
ある母親の一人息子が死んだ。その悲しみはどれほど深いことであったでしょうか。町の大勢の人たちがそばに付き添う程、町の人たちにとっても悲しいことでした。母親にとってはもちろんのこと、町の人たちにとっても、大きな出来事です。一同集まります。
何よりも優先される葬儀、そして、棺が担ぎ出されてお墓に向かう所でした。その葬列、その所に、丁度、もう一つ別の人たちの列が近づいてきました。通常ならば、その人達は、墓に向かう葬列に道を譲るべき所です。けれどもこの日は違います。主イエスを先頭に近づいてきた列、主イエスの列の方が、葬列の営みを止めてしまいます。14節主イエスが葬列に「近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった」とある通りです。
何故、葬列は止まったのか。それは「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」からです。死の陰に悲しむ一同を、とりわけ一人息子を亡くして悲しむその母親を、主イエスが憐れに思って下さったからです。そして「もう泣かなくともよい」と言われたからです。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まりました。
「もう泣かなくともよい」。一人息子を亡くした母親に誰が言えるでしょうか。私たちの誰も言えません。しかし、ただお一人、主イエス・キリストだけが、この言葉を語ることがお出来になります。この言葉を語ることの出来るのは、「キリストのみ」です。
一人息子を亡くさねばならない。父親が登場しませんから、母子家庭だったのかもしれない。それは一層、母親に一人息子を失う悲しみと孤独を深く経験させます。それだけではありません。聖書は何も触れていませんが、母親として思ったことでしょう、もっとこの子にこうしてあげればよかった、ああしてあげればよかったのに、その申し訳なさ、後悔、いや、罪の中に母親を突き落とします。死んで陰府に降ったのは息子だけではありません。この母親も又、自らの罪の故に彼女自身の陰府に降っています。もっとも、母親にしてみれば、息子と共に入れるならばたとえ陰府であっても一緒に付き添いたい程でありましょう。でもそれは叶いません。自分は地上に遺されるのです。息子の逝ってしまったその陰府に共に行くことは出来ない。
この母親に主イエスは「もう泣かなくともよい」と語りかけられました…。何故、主イエスは語りかけ得るのだろうか。
詩篇139篇にこういうみ言葉があります「どこに行けば、あなたの霊から離れることが出来よう。どこに逃れれば、御顔を避けることが出来よう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます」。
主イエスが、陰府に身を横たえた母親の一人息子の所においでになるからです。葬列の歩みをお止めにいなると、主イエスは陰府の中に共におられるかのようにして続けてこう言われました。しかも高らかに仰いました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。
「すると」…、棺の蓋を押し上げて「死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」。
これは世の終末の出来事、御国の完成の前取りです。主イエスがおられる所、そこはこの地上であれ、陰府であれ、そこには神の御国の出来事がもたらされる。不思議なことですが死人さえ甦らされる。そして主イエスが息子をその母親にお返しになった。その出来事は、単に甦らされた息子をお返しになったことを越えて、母親自身が思い巡らさるを得なかった罪を、赦す出来事です。主イエスは十字架を前に、十字架の恵みをこの親子に差し出して下さいました。この後、この母と子の間にどのような会話が交わされたでしょうか。
私はある人がこう言われた言葉を思い起こします。「天国に行ったら真先に子どもの所に行って謝る。ごめんね。すまなかったね」。
この福音書の一人息子も「いいんだよ、お母さん、また一緒に生きていけて嬉しいな」。喜び合ったでしょう。そして主イエス・キリストに喜びの感謝を表したに違いありません。それを見ていた周囲の大勢の人々も、皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけて下さった」と言ったのです。神の国を垣間見た訳です。
教会の墓地、墓石にはそこにお骨をお納めした方たちのお名前が彫ってあります。私はそのお名前とお顔を直接には存じ上げないのですが、健やかな内に天寿を全うされた方もおられますが、恐らく病で亡くなられた方、事故で亡くなられた方、若くして、あるいは乳幼児のまま亡くなられ方、また自ら命を絶たれた方もおられることです。時に、ご本人にとっても無念であり、遺された方たちにとってもやりきれないような仕方で最後を迎えられた場合もありましょう。それだけに、一人の人生が終わるというのは、ご本人にとっても遺された者にとっても、大きな出来事です。
しかし、終わり方がどうであれ、いやその人生がどうであれ、主イエス・キリストの「起きなさい」という言葉、今は天からの復活の主イエス・キリストの言葉です。「起きなさい」という言葉を妨げることは出来ません。十字架を経て甦られたキリストは、この希望の内に、私たちがたとえ陰府の闇の中にあっても、私たち一人ひとりの存在を見出しておられます。「闇の中でも主は私を見ておられる。夜も光が私を照らし出す」のです。この光の内を私たちは、今、命与えれて歩んでいるのであります。