日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2025年10月26日 説教:森田恭一郎牧師

「御子による豊かな恵み」

詩編三一・八~九
エフェソ 一・七

エフェソ書を読み始めました。エフェソ書の大きな主題は 「教会はキリストの体である」(エフェソ一・二三)ということです。キリストが教会の頭、教会はキリストの体です。そこで一連の説教では、キリストの体である教会に私たちが連なっている幸いを、エフェソ書から聞き、自覚し、受けとめたいと思います。前回は一章三節でしたので、四節から順に読んでいくところですが、四節以下は来月の召天者記念礼拝の時に味わいたいと思いますので、今日は途中スキップして、一章七節を先に味わうことにします。私たちはこの御子に於いて、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。

私たちは贖われ罪を変わって負って戴き、罪を赦して戴いたのですが、それは御子に於いてです。 私たちはキリスト教徒ですが、キリスト抜きにキリスト教徒にはなれません。教会はキリスト教会であり、何を信じるかというとキリストを信じます。神様を信じるという言い方もしますが、それはキリストに於いて御自身を現された神様を信じます。何度も申し上げてきたことですが、洗礼試問会で「神様を信じます」だけでは、長老会は洗礼を授けることは出来ません。キリストを信じるのです。私たちが、血によって贖われ、罪を赦して戴いたのは、御子に於いてです。「御子キリストの十字架は私のためであった」、この表明があればこそ、洗礼を授けられます。それは私たちの救いが御子キリストの十字架と復活によるからです。そしてこの事さえ受洗志願者が確認出来れば、他のことは二の次で良いのです。例えば、聖書は殆ど読めていないとか、自分の性格は良くないとか、行いも大して善いことはしていないとか、他のことは二の次で善いのです。

御子に於いて、十字架と復活による神の御業を知るのは、どれほど瞑想を深め悟りを求めても、自分からは出てきません。教会に連なって、キリストの御名をほめたたえる礼拝に集い、説教を通してキリストを知る御言葉を受けとめてこそ、開かれてくる視点です。そのようにして、自分の救いが御子キリストの十字架と復活による、と認識出来れば、信仰の基本は告白した、洗礼を授けることが出来ます。それで十分です。私なんか、と思う必要はない。

今日の招きの言葉、ペトロは答えました。 「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦して戴きなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒言行録二・三八)。救い主キリストの方を向いて悔い改め、洗礼を受けて、罪を赦して戴く。未受洗の方は大胆に洗礼を申し出て欲しいと願います。キリストの名によって、御子に於いて、これを心に留めましょう。信仰者もこれを再確認します。                           次に、その血によって。キリストが十字架で血を流されたことを語っています。これは今から二千年ほど前にエルサレムのゴルゴタの丘で執行された歴史の一回限りの出来事です。神話でもなく作り話でもありません。その出来事の事実は疑いようがありません。イエスという男がいわば冤罪で処刑されました。問題はその意味づけです。

その意味合いが、その血によって贖われ、罪を赦されましたということです。十字架の事実が贖いと罪の赦しという意味の内容である、という事を受けとめるのがキリスト教信仰です。

贖いは、買い取って自分のものにすることです。通常はお金を払って買い取りますが。キリストが御自身の血=命という代価によって買い取って下さいました。キリストが私たち一人ひとりを買い取り、御自分のものとし大切にして下さる。何と慰め深いことでしょう。キリストの御業ですから、私たちの人生の地上でも天上でも変わりません。  罪を赦された。聖書には似た言葉があります。過ちと罪(エフェソ二・一)。過ちは、ある説明によりますと、直訳は脇に倒れる。そこから踏み外す。小さな具体的な咎を表します。他方、罪は、投げ槍の的を外す。咎を引き起こす本質的で根本的な、神と人間の関係を指す用語です。

ここから考えてみますと例えば、人間って自分中心で罪深いね、と言う時は、誰もが抱えている本質的で根本的な、神の方を向いて神中心にすることが出来ない、そういう的外れの罪のことです。あんな人、赦せない、と私たちが思うのは、その人の具体的な行いを見て、赦せないと言っていることが多いと思います。

 

一章七節に戻りますと、ここに出てくる罪を赦されましたの罪は、話はややこしいのですが、先ほどの過ちという言葉です。何か意外に思いますが、実際、私たちが相手の罪にこだわり赦せないのは、行いとなって外に現れた過ちであることが多いと思います。

そして一方が相手の過ちを赦すのも、他方が悔い改めるのも、些細なことならまだしも、私たちにはなかなか出来ない。どちらの立場にあるとしても必要なのは、何よりも祈ることです。主イエスがこう言われたのを思い起こします。どんな願い事であれ、あなた方の二人が地上で心を一つにして求めるならば、私の天の父は、それを叶えて下さる。二人または三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいるのである(マタイ一八・一九~)。

今日は、次の主イエスのお言葉も思い起こしたい。また、立って祈る時、誰かに対して何か怨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなた方の天の父も、あなた方の過ちを赦して下さる(マルコ一一・二五)。具体的行為となって現れた過ちを巡る文章です。ここで、相手の過ちを赦して下さる、とは言わずに、あなた方の過ち、と言っておられるのは意外に思えます。これは、あなた方が赦せば、今度あなた方が何か過ちを犯したときに父なる神様が赦して下さる、とも読めます。が、同じ時点であなた方の過ちを赦して下さると理解するなら、どちらの側にいるにしても、赦せない、謝れないならば、それは主イエスから見れば、両者ともにその悩みの中にあることになります。慈しみを戴いて、私は喜び踊ります。あなたは私の苦しみをご覧になり、私の魂の悩みを知って下さいました(詩編三一・八)。ここに魂の悩みとあります。赦せない者も謝れない者も、魂の悩みがある。そのことを詩編は見ているのではないか。これを主イエスは、御自身の血によって贖い、赦して下さる。

 

エフェソ書は続けて、贖いと赦しを、これは、神の豊かな恵みによるものですと語ります。恵みと言っても良いし、先ほどの詩編で言えば慈しみを戴いての慈しみと言っても良いでしょう。慈しみと言い恵みと言い、これはどちらも一方的に戴くプレゼントです。手柄を前提とした褒美ではありません。贖いも赦しも、人間が何もないところから自力で出来る事ではありません。悔い改めも謙虚になれば出来るというものではなく、キリストの贖いと赦しに顔を向ける回心から、神に対して起こる出来事であり、また具体的な相手の人に対して起こる、聖霊の御業です。

 

終わりに、恵みという言葉からもう一つ。恵みは贖いと赦しだけではない。全ては恵みによる、ということを受けとめたい。人間の業によって社会の営みは成り立っています。善い業を行えれば価値ある生き方が出来た、などと考えます。でも生き方以前に、生きているということ自体が、恵みです。生かされていると言った方が適切でしょうか。恵みによって生かされていることを、尊厳と言います。

この礼拝も。私たちがささげていると言いますが、聖霊なる神様が恵みによって礼拝を整え、私たちを招いておられます。今日も、礼拝に集っていること自体、恵みによるのであって、当たり前のように思ってはいけない。聖霊と、礼拝に招かれて今ここにいることを許されている自体に、敬意と感謝を表すことを忘れないようにしたい。教会に連なる幸い。これは、神の豊かな恵みによるのです。

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