イザヤ書35章1~2節
ガラテアの信徒への手紙一1章1~5節
本日の説教題は「栄光、神に在れ」です。この言葉は当教会の目指す信仰の姿勢を表したものであります。今日皆さんのお手元にある一筆箋にもこの言葉を標題として記して戴くことにしました。この一筆箋を皆さんにお配り致しましたのは、皆さんお一人お一人も、この言葉をお心に刻んで戴きたいと思うからであります。
当教会ではこの言葉は、橋本通牧師のとき1963年にこの教会堂が献堂されたその最初から、玄関の入り口の上の所に、この言葉の書かれた大きな表札を掲げたのです。その後の台風で表札は壊れてしまったのですが、2005年の創立百周年記念誌のタイトル=標題として採用し、今一度、この言葉を私たちの目指す信仰の姿勢、人生を歩む目標として、心に刻む訳であります。
会堂の入り口に表札として掲げて、「栄光、神に在れ」の言葉を、教会員だけでなく、町行く人たち誰からでも分かるようにする程にしたのですから、斎藤牧師が、あるいは当時の長老会が、これを教会の信仰の姿勢として自覚的に打ち出したことは明らかであります。
もとよりこの言葉は、特に宗教改革の伝統に正しく立つ教会であるなら、私たち罪人である人間の永遠の救いは、主キリストの贖罪に対する信仰のみによること、そしてその恵みの告白に基づいて「神の栄光の為に」生涯を献げていくその信仰の立ち位置と姿勢をどのプロテスタント教会でも受けとめているはずのことであります。それを余りに当たり前のこととして受け流してしまわないように、明確に打ち出し、教会としてぶれない様にしていく、その決意を、その表札と百周年記念誌のタイトルに、そしてそれを今日も受け継いで、一筆箋を手にして戴きながら、教会も皆さん方お一人お一人も改めてこの言葉を信仰の姿勢として心に刻むのであります。
さて、今日はガラテヤ書から「栄光、神に在れ」を味わいたいと思います。出来事とその意味ということをここ数回語って参りました。その出来事とは4節の後半「キリストは、御自身を私たちの罪のために献げて下さったのです」という十字架の出来事です。そしてそれが何を意味するのかというと、その直前「私たちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私たちを救い出そうとして」。あの十字架の出来事は、ただ一人のイエスという男が死んだというだけのことではない。それは主イエス・キリストが「御心に従い、この悪の世から私たちを救い出す」という意味、「私たちの罪のために献げて下さったこと」という意味を伴っているということです。そして十字架の出来事とその意味を信仰以て受け止めますと、そこから、神さまと私たちの新たなやり取りが始まる。意味の新たなる展開と言ってもいい。まず神様から私たちへ。3節「私たちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなた方にあるように」。そして今度は私たちから神様に向かってということになります。5節「私たちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン」。最後は「アーメン」となっていますから祈りですけれども、私たちは十字架の出来事から意味を受けとめ、この十字架の出来事を根拠にして、意味を受けとめ、そこから祈りの中に神さまとのやり取りが展開していく。それが生きる目標と姿勢にもなる。
なぜ「栄光、神に在れ」なのか。それは十字架の出来事、そして1節には「キリストを死者の中から復活させた」出来事が記してありますから、キリストにおいて出来事となった十字架と復活という根拠があるからです。そしてもう一つ、栄光を神に帰せずに自ら人間に帰せしめてしまう人間の罪が地上に在っては尚あるからです。
ガラテヤの教会は一つの大きな問題を抱えていると、パウロには見えた。十字架と復活を根拠に「栄光、神に在れ」と神を褒め立てればよいのに、教会の指導者が、このキリストの福音とは異なることを語った。キリストによる出来事だけでは不十分だ。やはり私たち人間の側が、律法を守らなければ、神さまに良しとはしてもらえない、という訳です。結局は「栄光、神に在れ」ではなく、律法を守る「人間に栄光在れ」になってしまっていた。
何故そうなってしまうのか。人はどうしても、救いの確かさが欲しい。これだけ自分がやったから大丈夫だ、と自分の経験に根差す確かさが欲しい。救いを自分で確かめたい。そう考えると、十字架も復活もキリスト御自身の経験です。私たちが十字架にかかった訳ではなく、復活も私たちの復活は終末の希望に属することで、私たち自身の経験には未だなっていない。3節で「恵みと平和が、あなた方にあるように」ち幾ら言っても、その根拠は「父なる神とキリストの恵みと平和」ですからキリスト側にあって、自分の側に確かさがない。それでどうしても、私はこれだけやっていますよ、という自分の側の誇り、プライドと言ってもいい、神さまに誇れる自分の確かさが欲しくなる。恵みによって救われる。それを信仰を以て受け止めるというのは、人間の側の業は必要ない、人間の側の善し悪しによって左右されない、キリストの恵みによって救われる、ということですから、一番簡単な有難いようなことですが、それが意外と難しい。自分の側の確かさがないので不安になる。まさかとは思いますが「栄光、自分に在れ」という信仰の姿勢になってしまう。
それで、「栄光、神に在れ」を絶えず自覚していくことは大事なことであります。
今日は「創立記念日」でもありますが、同時に午後に教会の「牧師就任式」もあります。どのような牧師が立てられるか、教会は何やかんや言っても、やはり牧師の説教にって形造られていきます。教会が6節の言葉でいうと「キリストの恵みへ招いて下さった方から、離れて、他の福音に乗り換えてしまう」かどうか、やはり牧師の責任は大きい。
パウロは1-2節で、挨拶文ではありますが「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロから」と記して、自分の使徒であることの正当性を強調しています。ガラテヤ教会をその後指導したキリスト教徒にはなったけれども元ユダヤ教徒であったユダヤ人指導者から見ると、パウロは誰のお墨付きもなく使徒となっている。パウロを批判する思いがあった。それに対してパウロにしてみると、自分は復活のキリストに出会った使徒であります。キリストがこの自分を活かして下さったこと、キリストの証言を語る者とさせて下さっていることに、教会の人々の想いを向けさせます。
私、森田はと言えば、使徒ではありません。復活のキリストに出会った人が使徒としてキリストを証言します。私は復活のキリストにまみえていません。使徒の残した証言の言葉に基づいて説教するだけです。だから私の場合には「人々からでもなく、人を通してでもなく」とは言えない。もちろん自分自身、こんな自分が牧師に召されるなんて、という不思議さを覚えつつ召命意識は与えられています。でも使徒ではありませんから「人々から、人を通して」という教会の手続きが必要です。私個人のやる気や能力ではなく、キリストを証言する内容をしっかりと学び、教師になる試験を受け、聖霊の導きによる准允、按手礼、そして今日は就任式、神さまの問いかけに対する本人と教会の皆様の誓約と共に、諸教会の方たちの祝福が必要です。全てを通して聖霊なる神のなさることであります。
私個人がするのではなく、聖霊なる神様が為さる、この確認が、私個人として召命を戴くことから、教会の就任式に至るまで、もちろんその後の全ての牧師の営みにおいて不可欠です。「聖霊なる神様に栄光あれ」とも言えることです。
福音の種を蒔くために、神さまが河内長野教会に遣わして下さったA・D・ヘール宣教師、日本での働きの最後、臨終のときに口にした言葉が記してあります。「美しい、美しい。主の栄光が私たちを取り巻いている。主の栄光が私たちの内に光っている。主の栄光はご自身の内に輝く」。宣教師の営みを振り返って、自分はこれだけやったぞ、どうだ、とは言わない。「栄光、自分に在れ」とは言わない。臨終のその時まで「栄光、神に在れ」でありました。
このことを思うと、教会玄関に掲げられた「栄光、神に在れ」は献堂の1963年から始まったのではない。ヘール宣教師の時から既に河内長野教会の目指すこととして始まっていたのであります。