日本キリスト教団河内長野教会

メニュー

kawachinagano-church, since 1905.

説教集

SERMONS

2025年9月14日 説教:森田恭一郎牧師

「聖なる者になりなさい」

ホセア一一・一〇~一一
ルカ  五・ 八~一一

神様は愛であられ、義であられ、聖なる方です。先週も触れましたがイザヤは神殿でセラフィムの呼び交わす声に圧倒されました。 「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地を全て覆う」(イザヤ六・三)。その声を通して神様の臨在の前に立たされたのでした。これは、聖なる方という神様についての自覚です。

それから次は、聖なる神様に出会った人間の自分についての自覚です。聖なる神様の御前で、イザヤが気付き自覚したのは、己の罪、罪の故に滅ぼされるべき自分でした。 「災いだ。私は滅ぼされる。私は汚れた唇の者。汚れた唇の民に中に住む者。しかも、私の目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た」(同五節)。続いて罪の赦しを戴ききます。 「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(同七節)。そして遣わされます。 「誰を遣わすべきか」、イザヤは応えて「私がここにおります。私を遣わして下さい」(同八節)。 このように、聖なる神様に出会った私たち人間は自分についての「罪、赦し、派遣」の自覚が生じます。そして今日の主題ですが、神様が聖であられて、それ故、神様は人間の私たちに対して、あなたたちは聖なる者となりなさい。主なる私は聖なる者だからである(レビ記二〇・二六、招詞)と仰います。聖なる者になりなさい、そのようなことを言われてもそれは無理です、と戸惑うばかりです。でもそれは、私たち自身が何か立派な者になるということではありません。私たちと言えば「罪、赦し、派遣」の自覚が生じる中で生きることが、聖なる者とされるということであり、そのようにして、神様が私たちを聖なる者とする(同八節)訳です。

新約聖書からこのイザヤと同じ経験を記している記事を挙げてみます。ペトロの経験です。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足下に平伏して「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者なのです」と言った(ルカ五・八)。ペトロは漁師でした。昨夜は夜通し苦労して働いても何も獲れませんでした。そのような彼に、主イエスがこう言われました。「沖に漕ぎ出し網を降ろし、漁をしなさい」(ルカ五・五)、そう言われてその通りに漁をしてみたら、夥しい魚がかかり、網が破れそうになったのでした。

これを見たペトロの反応はこうでした。イエスの足下に平伏して、主イエスを礼拝したということです。主イエスというお方に神様とその力を見た。そして主イエスにあって顕れたのは「聖なる神様だ」と瞬間的に分かった。それで「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者なのです」と言ったのでした。自分の罪を自覚したのでした。どうしてペトロは、自分の罪を自覚して平伏すほどに主イエスに聖なる神様を見、その聖性を直感したのか。これは理屈を超えた出来事であって、不思議です。聖霊が働いて下さったとしか言い様がありません。

そして次に主イエスが言われました。 「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ五・一〇)。これは招きの言葉です。この時のお言葉は、ペトロが漁師でしたから、ペトロに合わせて語呂合わせで、人間をとる漁師。漁師が漁をすれば魚は死んでしまいます。でも主イエスのお力を以て人間を救いとれば、人は生きた者となります。主イエスは、ペトロの賜物をお用いになります。

この招きは、罪を赦し、派遣することを含んでいます。ペトロは自分でも気付きませんでしたが、この時、ペトロは聖なる者とされました。ペトロは自分の罪を自覚し、罪の赦しを戴き、そして聖なる者として歩むように「聖なる者となりなさい」と派遣されていきます。その第一歩として、そこで彼らは舟を陸に引き上げ、全てを捨ててイエスに従ったのでした。なぜ、全てを捨てるなど、出来たのだろうか。それは、主イエスがペトロの内に神様のご計画をご覧になられたからです。神様がペトロをお用いなる。人間を救いとる漁師になる。それをペトロは示された。だから従い得た。

さて、ホセア書から御言葉を味わいましょう。先週の終わりの箇所から。神様のお言葉です。

私は神であり、人間ではない。お前たちの内にあって聖なる者。怒りを以て臨みはしない。獅子のように吠える主に彼らは従う。主がその声を上げるとき、その子らは海の彼方から恐れつつやって来る。彼らは恐れつつ飛んで来る。小鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリアの地から。私は彼らを各々の家に住まわせる、と主は言われる(ホセア一一・九b~一一)。北王国イスラエルがこれから、アッシリアに滅ぼされ連れて行かれ、あるいはエジプトに逃げた人たちの、各々の家に帰る救いを語っているようです。新しく生きるようにと招いています。各々の家、私たちにとって 自分が属する各々の教会であると考えましょう。

それにしても、獅子のように吠える主、というのは興味深い表現です。同じ時代の預言者アモスもこう語っています。獅子が吠える。誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる。誰が預言せずにいられようか(アモス三・八)。神様が吠える、神様がお吠えになったら、それは恐ろしいことでしょう。誰が恐れずにいられるでしょうか。でもそれはただ大声で怒鳴るようにして吠えるということではなさそうです。その吠える御声は、愛と義と聖なる方の御声です。ペトロも、網を降ろしてみなさい、人間を救いとる漁師になる、と。主イエスのお声はまさか怒鳴るような吠えるお声ではなかったでしょう。しかしペトロの心には大きく響いてきた。恐れた。主イエスはだから、恐れることはない、と語りかけ、ペトロを神様のご計画の中に生きるようにとお招きになりました。

終わりに、レビ記の御言葉を味わいましょう。私たちが聖なる者となるとは、の確認です。あなたたちは私の者となり、聖なる者となりなさい。主なる私は聖なる者だからである。私はあなたたちを私のものとするため諸国の民から区別したのである(レビ記二〇・二六)。聖なる者とされるとは、私たちが神様のものとされて他の人々から区別されることです。それはしかし、区別され偉いんだぞと地域の人々に対して自らを誇るためではありません。区別されて用いられる。そして私たちが神様のご計画に用いられていることを感謝して、御名をほめたたえるためです。

私たちも、神様がこの自分をお用いなる、と神様のご計画を知ったら、ペトロのようにそれに従う。少なくとも、ここにおられる私たちは、そうなのではありませんか。人生にどのようなことがあるにしても、それでも信仰によって生きる、私たちの証しの言葉はこのことを示しています。

教会も同じです。主は河内長野教会に対しても静かに吠えておられる。信仰の内に大きく響く御声を聞き取りましょう。それは神様のご計画に用いられていることを感謝して、御名をほめたたえるためです。主イエスは、一二一年目からの営みを、主のご計画に用いようとしておられます。教会という家で、教会の私たちは御言葉を聴き、信仰を育まれ、主のものとされて新たな思いを以て生きて行く。ご計画の中に教会も私たちも用いられていく。私たち自身も地域の皆さんも、そのような教会の姿を見て、主に栄光を帰するようになります。一二一年目からの営み、そのご計画の内にあることを信じます。

カテゴリー

過去の説教