日本キリスト教団河内長野教会

メニュー

kawachinagano-church, since 1905.

説教集

SERMONS

2025年9月7日 説教:森田恭一郎牧師

「憐れみに胸を焼かれる」

ホセア 一一・八~九
Ⅰコリント一・三〇

神様は聖なる方です。イザヤは神殿でセラフィムの呼び交わす声に圧倒されました。 「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地を全て覆う」(イザヤ六・三、本日の招詞)。その声を通して神様の臨在の前に立たされたのでした。その神様は聖なる方でした。イザヤは続いて罪を自覚し(同五節)、罪の赦し戴き(同七節)、遣わされていく(同八節~)のでした。また神様の聖であられることは、そのまま、主の栄光に覆われることでした。神様の聖であられることと神様の栄光は、切り離せない表裏一体の経験でありました。

ホセアもまた、イザヤと同様の内容で神様からお預かりした御言葉を語ります。私は神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者(ホセア一一・九)。ホセアはこの一一章で神の愛を語り、神の義、正義を語ってきました。今日の箇所でも、「ああ、エフライムよ(エフライムは元は一二部族の一つ、地図の上では南王国ユダのすぐ北側に接する地域、イスラエルの民と同義語)、お前を見捨てることが出来ようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことが出来ようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることが出来ようか(アドマもセポイムも ソドムヤゴモラと同じように神に滅ぼされた町の名前)」 (ホセア一一・八)、御自身の愛を語り、しかし立ち帰ることを拒む(ホセア一一・五)。そのような彼らに 義なる正義の神は、本来ならお怒りになって「悪いものは悪い」とその罪を罰して滅ぼしても一向に構わない所なのですが、愛の故に神様のお心はのたうち回る。これをこう表現しています。私は激しく心動かされ……。天の高きに居まして、罪人を見下す冷徹な神、というのではない。激しくお心が動いている。 「私は愛しているのにエフライムは立ち帰ることをせず罪の内にいるままだ」。

そして、憐れみに胸を焼かれる。これが生きた神様のお姿です。それ故、私は、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。怒りを以て臨みはしない。何故かと言えば、私は神であり、人間ではない。お前たちの内にあって聖なる者だからです。御自身の愛と正義の狭間にあって滲み出てきているのが「聖なる者」という御自身の事実です。

神様が聖なる者であられることは、その内に神様の愛と神様の義を含んでいる、ということです。愛であられるが故に罪を赦し、義であられるが故に裁く。その両立のためにキリストの十字架で罪の罰を自ら負い贖い、正義を貫徹し、私たちに対しては愛の故の赦しをもたらして下さる。神の愛と神の義を同時に内に含んでいるのが御自身の聖なる者ということ、聖性の中身、本質です。

パウロはこう語ります。神によってあなた方はキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです(Ⅰコリント一・三〇)。 愛と正義、赦しと裁きが両立するためには、神の知恵が必要だった。その知恵が明らかになったのがキリストの十字架の贖いの出来事でした。

ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探します(Ⅰコリント一・二二)。 十字架こそが、神の愛と義の両立する聖であられることのしるしです。ギリシャ人は哲学の知恵を探求し、知恵を誇りました。でも人間の知恵では愛と正義を両立させることは出来なかった。ギリシャ人は、いやギリシャ人だけではない、世は自分の知恵で神を知ることは出来ませんでした。十字架のキリストこそ、神の知恵であるキリスト(Ⅰコリント一・二一、二四)です。

神の知恵は頭で考える単なる理屈、哲学ではありません。ホセア書をもう一度。私は激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。御自身の愛と正義の狭間にあって、心揺さぶられ胸を焼かれて滲み出てきたのが、聖なる者としての神の知恵、御子キリストの事実です。神の義となり聖と贖いとなられたキリストの出来事です。キリストの出来事に現れた、愛と正義を内に含んだ聖なる神様です。心動かされ、憐れみに胸を焼かれる聖なる神様です。

この聖なる神様に出会わさせて戴いて、私たちは立ち帰ることを拒まず、キリスト・イエスに結ばれて、この御子の事実に触れて、これからの歩み出しが導かれていくに違いありません。

カテゴリー

過去の説教