日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2025年8月3日 説教:森田恭一郎牧師

「栄光、神に在れ(二)」

歴代誌上二九・一〇~一三
フィリピ 四・一九~二〇

「栄光、神に在れ」。先週は、教会創立一二〇周年記念をお祝いし、一二一年目の営みを始めることが出来ました。けさ「栄光神に在れ」の聖句のプレートを受付でご覧になり、礼拝へ姿勢整える思いになられたことと思います。        「栄光神に在れ」の聖句、先日の祈祷会でも確認したのですが、それはルカ福音書二章一四節の天使の賛美の言葉です。「いと高き所には栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。

先週も確認したことですが、預言者イザヤは 「主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る」(イザヤ四〇・五)と預言しました。イザヤが待ち望んだ主の栄光は、二千年前クリスマスに主イエス・キリストと共にこの世に現れて出来事になりました。主の栄光が羊飼いたちの周りを照らし、続けて天使たちの大軍が「栄光神に在れ」と歌い交わしたのでした。そして私たちの所には、キリストについての福音宣教(ローマ一六・二五)の教会の歴史を通して主の栄光は現れてきました。ですから私たちは、日々の生活において色々壁にぶつかって信仰が弱くなったりと色々ありますが、その様なときこそ、いつでも、この教会の礼拝、福音宣教の歴史から離れないで「栄光神に在れ」の出来事に心が触れることがとても大切です。

さて本日の主題は、この「栄光神に在れ」が、礼拝という福音宣教において出来事になると共に、教会と共に、そして皆さんと共に、地域の出来事になるということです。本日の招きの言葉でも聴いた聖句ですが、それから、私を呼ぶが良い。苦難の日、私はお前を救おう。そのことによって、お前は私の栄光を輝かすであろう(詩編五〇・一五)。私たちが神様の栄光を輝かす、というのです。それは私たちが何か立派なことを成し遂げたから、というのではありません。詩編はこの時の人間の姿を、苦難の日にある人間として描いています。その中で「神様、助けて」と呼ぶがよい、祈るがよい、叫ぶがよい。そのような苦難の日、私はお前を救おう。その時の人間の姿は、苦難の中でもがき、助けを叫び求め、のたうち回っている、ボロボロの姿です。そしてその私たちが、主の救いの中へと導き入れられた時に「お前は私の栄光を輝かすであろう」と主は言って下さる。

この詩編の締めくくりの言葉も味わいましょう。告白をいけにえとしてささげる人は、私を栄光に輝かすであろう。道を正す人に、私は神の救いを示そう(詩編五〇・二三)。私たちが神様の栄光を輝かし、私たちが神様の栄光に輝かす。勘違いしてはいけないのは、栄光に輝くのは神様御自身です。助けて下さい、救って下さいと救いを叫び求め、あなたこそ私を救って下さるお方、と苦難の中から告白するとき、そんなボロボロの私たちが「神様の栄光」を輝かせている。 神様に救いを示され、救われた者として、神様の栄光を輝かす。                         主の祈り終わりの祈りは、国と力と榮とは限りなく汝のものなればなり。これも神の栄え、栄光を謳いますが、この根拠聖句が歴代誌上二九章の聖句です。「偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの」(歴代誌上二九・一一)と、ダビデが主をたたえ、御名をたたえています。教会の礼拝の歴史の中で整えられてきた主の祈りもまた終わりに「栄光神に在れ」と祈る所に行き着きます。                             詩編記者が、苦難の日、助けを求めて御名を呼び、救いに与る。またダビデが主をたたえる時、それはその本人にとっての救いであり神に対する賛美です。でも旧約聖書は同時に、神の栄光が信仰者本人に現れるだけでなく、イスラエルの不信仰に陥った者、エルサレムの聖所を汚した者たちに向かって「私は生きている」とお語りになって、主である私が憤れるだけ憤り、熱情を以て語ったということを彼らは知るようになる (エゼキエル五・一一~)と彼らへの裁きを語る時には、主のご支配、力、栄光が明らかになる。

あるいはまた、私はお前たちが国々で汚したため、彼ら(諸国の民)の間で汚された我が大いなる名を聖なるものとする。私が彼らの目の前で、お前たちを通して聖なる者とされるとき、諸国民は、私が主であることを知るようになる (エゼキエル三六・二三)。イスラエルの民が顧みられてエルサレムに帰還する事を通して、諸外国の人たちが神様の栄光を知るようになる、という訳です。神様は世界の主なる神様です。           今日私は、未信者の方たちも含めた市民の皆さんにとっても教会が親しみを以て知られる「市民教会」になるということを申し上げたい。市民教会というのは私の表現です。

まず、教会ではないのですが、新聞記事から大阪の四天王寺の話を紹介します。五九三年創建の四天王寺は、歴史の中で幾度となく焼失と再建を繰り返しました。その都度、広く一般から寄付が寄せられたのだそうです。危機に直面しても、四天王寺が残り続けてきたのは、地域の信仰、大阪の仏壇としてあつい信仰を集める場であったからと新聞記事は語っています(七月五日朝日朝刊)。これを読みながら、市民のお寺になったのだと思いました。

次に紹介したいのは、能登半島の輪島教会のことです。先週の「教会だより」にも記しましたが、地震で会堂が使えなくなり、仮礼拝堂を設置しました。その費用が市民から寄付が寄せられたか否かは分からないのですが、輪島教会はもちろんのこと、中部教区はじめ全国の諸教会、河内長野教会の私たちも献金をささげた。そして五月に仮礼拝堂が設置された。それを見た市民の方たちが大変喜んで下さったそうです。それは能登半島復興のしるしに思えたからです。輪島教会が気付かない内に、輪島教会は「市民教会」として親しみを以て市民の皆さんが眼差しを向けていたのです。

河内長野教会は創立一二一年目の歩みを始めました。これまで地域の信頼の中で伝道が成り立ってきたと、この度の記念を通して私たちは気付きました。それをこれからへと展望するとき、河内長野教会はこの地域にあって市民教会であることを期待されていると思わされました。その具体化はこれからですけれど、栄光神に在れ、の信仰を以て礼拝をささげていきます。栄光神に在れ、このことを心に刻み、私たちは歩み出したいと願います。神様の栄光がこの教会の働きと共に現されるとき、市民の皆さんが、ここに神様の業が現れていると、驚きを以て喜んで下さり、河内長野教会もまた市民教会となっているのではないでしょうか。それは、私たちが祈りを合わせる中でこれからの当教会のヴィジョンにもなり得るものです。

 

パウロはフィリピ書でこう語ります。私の神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなた方に必要なものをすべて満たして下さいます(フィリピ四・一九~)。豊かで莫大な神様の栄光の富、それを現して下さる。輪島教会、仮礼拝堂の設置ですから、建物自体はささやかなものでしょう。でも、そこにはキリストが御自分の栄光の富を現して下さった。私たちも「栄光神に在れ」を心に刻んで歩むとき、河内長野教会にも現して下さる、と信じます。パウロは続けて、私たちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、と栄光をたたえます。

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