イザヤ四二・八~九
エフェソ六・一八~二〇
先週に引き続き祈りについて思いを深めます。聖書はエフェソ書六章、祈りを語っている箇所の一八節からにしました。どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、これは自分のために祈ることです。全ての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。これは他の全ての聖なる者たち、相互牧会の祈りと言っても良いでしょう。また、私が適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことが出来るように、私のためにも祈って下さい。私というのはパウロですが、これは説教者のために、福音を示す教会のために、ということでもあります。
実はこの箇所は一〇節から一体となっている文章で、この世で信仰者としてしっかりと立っていくために必要なことを記している箇所です。初めの一〇節には、強くなりなさいと言っています。でもこれは自分の力で頑張れということではありません。日本語の言い回しとしては用いませんが、強くされなさい、という受動形です。ですから、主により頼んで強くされ、その偉大な力によって強くされれば良い訳です。私たちがこの社会で信仰者として生きるのは、人間相手の生活であるようでありながら、実は、悪魔の策略に対抗して立つことが不可可決になるので、そのためには神様の偉大な力によって強くされることが必要です。これを文学表現として神の武具を身につけることが不可欠で、神の武具を一四節以下では六つ、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備えとしての履物、信仰の盾、救いの兜、そして神の言葉の剣、これらを神の武具として身に着けます。これらの神の武具、特に神の言葉によって私たちは強められる、強くして戴けることになります。神が強くして下さいます。そして、しっかり立ちます。
しっかり立つのは私たちですが、立つ、それが祈りです。神の武具を身に着けて主の力によって強められ、しっかり立つことが出来るのですが、まず自分のために祈る。どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め(一八節)ます。どのような時にも、とありますから、逆境の時にも、祈ります。逆境の時には苦しいときの神頼みではありませんが私たちは祈ります。一一節の言葉で言えば、悪魔に対抗してということは逆境の時には意識しやすいですね。そう考えるとむしろ順境の時は却って、祈ることを忘れたり傲慢になったりして自分が神になってしまいがちです。もめ事があるときに正しい言い分は自分の側にあると思える時には、相手を受け入れられない、赦せないことはよくあることです。その時には祈りの必要性を感じなくなってしまう。正に悪魔は順境の時にこそ策略を練ってくる。私たちは過去から今に至ることを見て、事柄を判断したり相手を裁いてしまったりしがちです。その時に祈るというのは、御心が成っていく将来を見ることです。
イザヤは預言しました。新しいことを私は告げよう。それが芽生えて来る前に、私はあなたたちにそれを聞かせよう(イザヤ四二・九)。祈りは将来実現してくる御業の出来事に思い馳せることです。『A・D・ヘールに学ぶ』には祈りに応えて御業が進む話が沢山載っています。大阪東教会の記録を引用しています(一六〇頁)が、会堂の献堂に向けての祈りを「数年来の祈りを聴かれて」と記しています。将来の献堂の夢を仰ぎのぞみながら祈っていく祈りの姿です。また献堂の後、無牧になったりして「前途のために熱心に祈り求めた」とあります。祈りとは、これから出来事となる御心の成ることを祈り求めることであります。
それから『A・D・ヘールに学ぶ』には、A・D・ヘールが、生徒三人を覚えて祈る思いを記している所があります。 「しかし、この地に於いてクリスチャン婦人として受ける誘惑は大きいので、彼女たちが、良きキリストの働き手となるために多くのクリスチャンの心を込めた祈りを必要としている」(八七頁)。この記事から中山昇はこう記します。 「こうして三人は祈りの内に育てられた。祈りの子は神様の懐の中で守り通される」。教会学校の生徒を覚えての祈りも同じですね。 エフェソ書に戻りますが、全ての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。生徒だけではない。教会のみんな、聖なる者のためにお互いに祈り合う。相互牧会の祈りです。
エフェソ書は続けてパウロの願い求めていることを記しています。私が適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことが出来るように、私のためにも祈って下さい。福音の神秘を大胆に示し語る説教者としてのパウロです。語るべき事は大胆に話せるように祈って下さい(二〇節)ともう一度重ねて語ります。説教者である私パウロのために祈って下さいと。教会は説教者のために祈る。
最後に。祈りについて忘れてはならないことがあります。それは私たちが祈るのに先だって主イエスが祈っていて下さる事です。主イエスはシモン・ペトロに、三度知らないと言って主イエスを裏切るペトロに語りかけました。 「しかし、私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ二三・三二)。主イエスがペトロに、立ち直るようにと祈られた。それもペトロの知らない内に祈っておられた。 立ち直るは、向き直るとか、立ち戻るとかの意味合いがある用語です。この時祈ってもらったペトロは自分の手紙でこの言葉を用いてこう書き残しています。 「あなた方は羊のようにさ迷っていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方の所へ戻って来たのです」(Ⅰペトロ二・二五)。
主イエスに立ち直るようにと祈って戴いたペトロが、今度は教会の人たちに、あなた方も立ち直り、立ち戻ってきたのだと、兄弟たちを力づけています。力づけているというのは、祈っていると言い換えても同じでしょうね。
私たちも主イエスに祈って戴いている。だから私たちも主イエスに立ち戻り、自分のため、お互いのため、教会のために祈り、祈りの群れの教会に招かれています。そうやって強められる一人ひとりとされています。