創世記 二・一五~二五
エフェソ五・三一~三三
初めに、神は天地を創造された(創世記一・一)。 神様がお造りになる理由は、愛の故です。私たちを愛するためにお造りになりました。そして、創世記二章では、最初、人を一人だけ、男の人を造りました。そして神様は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助けるものを造ろう」(創世記二・一八)と言われました。そして主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形造り、人の所へ持ってきて、人が夫々をどう呼ぶか見ておられた。聖句カード(福音主義教会連合二〇二二年度版No.7)を見てみましょう。
上の方に何か飛んできました。それで「鳥」と呼びました。それからカッパコッポと何か歩いてきたので「ロバ」と呼びました。それから次には「猿」、そしてコケコッコーと鳴いている「鶏」、次はブーンと「蜂」。モーッと「牛」。牛は牛で優しそうな目をしていて可愛かったけど、どれもみな、助けてくれません。
その後、ぐっすり眠って、目を覚ますと、目の前に、姿や形の似たもう一人の人がいました。神様は、助ける者をお造りになったのでした。
それで「おはよう」と声をかけたら「おはよう」と応えくれました。「エデンの園には木の実がたくさんあるんだ」と言ったら「一緒に食べよう」と言ってくれました。「一緒に遊ぼう」と誘うと「こうしたらもっと楽しいよ」と応えてくれて、本当に楽しかった。一人では出来ないことも二人で一緒なら出来るようになった。助け合うとは、呼びかけ合う、応援し合う、ということです。
ところで人を日本語の漢字で「人」と書きます。英語では人のことをhumanとかhuman beingと言います。最初の字を大文字では「H」と書きます。漢字の人と英語のHではどちらが助け合うことになるでしょうか。この字を見てみましょう。
人は、片方が倒れるともう片方も倒れてします。お互いが寄りかかって依存しているだけで助け合いになっていないようです。一方、Hの方は夫々、自分で立っていて、自立している者同士が手を繋いで協力し合っています。もう一度、聖句カードを見てみると、真ん中の二人は手を携え合って、Hのイメージですね。しかも一緒に上を向いて神様を仰ぎ見ています。神様をほめたたえています。
そして二人は二人なのですが一体です。「こういう訳で、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる(創世記二・二五)。一体となる、それは呼びかけ合い、応援し合い、一緒に神様をほめたたえる姿です。
そしてもう一つ聖書は 「一体」を語っています。エフェソ書です。それ故、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる(エフェソ五・三一)。同じことを記していますが、その意味合いを加えて語っています。この神秘は偉大です。一体となった夫婦、そこには神秘があります。パウロが語ります。私は、キリストと教会について述べているのです。キリストと教会、キリストが頭で教会はキリストの体である、と言われる程に頭と体は繋がっていて一体です。教会は歴史の中ではいつも欠点があります。その教会をキリストはとことん、愛し抜いて下さいます。見放すことはありません。キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった(エフェソ五。二五)とある通りです。このように、キリストが教会を愛し抜いて教会の頭となり、体なる教会と一体です。キリストと教会の一体となっていることを、この地上で証するものとして、二人でありながら一体となっている夫婦がある。キリストと教会が一体であるという神秘を、夫婦は宿しています。
創世記に戻って最後の所、人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった (創世記二・二五)。これは文字通りには服を着ていない裸ということです。夫婦にはそういう面がありますが、それだけではありません。裸というのは隠していないということです。人には必ず欠点があります。でも、その欠点の故に、信頼関係が壊れることはない。お互い欠点を認めた上で、呼びかけ合い、応援し合っていく。欠点ということを含めるなら、助ける者とは補い合う者です。教会もまた、同じです。人も教会も欠点がある。課題もある。それをキリストが負って伴って下さる。ここに「教会を信じる」根拠がある。そして課題を隠すことなくむしろ乗り越えていけるようになります。それで、有り難うと、一緒にキリストをほめたたえる私たちとされています。これが、神様がお造りになった一体とされている人間の姿、キリストが頭となっていて下さる教会の姿です。