詩編一一三・一~九
マタイ一六・二七~一七・二
皆様、主イエスのご復活、イースターおめでとうございます。天使が高らかに告げました。 「あの方は、ここ(=墓)にはおられない。かねて言われていた通り、復活なさったのだ」(マタイ二八・六)。 今日は、主イエスが栄光の主であられること、それを信じて生きることの出来る幸いに思いを深めます。
それにしても、死人が甦った。私たち人間には不思議なことです。主イエスは神の御子だからお甦りになったのだ、ということでしょうか。もしそうなら、私たちには関係のないことになります。もちろんそういうことではありません。人であられる主イエスがお甦りになられたのです。父なる神様の御力によって甦らされたのです。だから人である私たちも甦らされる希望を持ちます。
そして同時に、主イエスは神様ご自身であられますから、そのお姿は栄光を身にまとっておられます。山上の変貌の場面で 「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタイ一七・二)。ただ身にまとっているのではありません。御自身が光り輝く栄光そのものです。私たちはそれを信じます。信じて、私たちは希望を持つことが出来ます。栄光の主がおられる、栄光の主がご支配なさる御国の世界が本当にある、と。
そして、私たちが、神様の、そして主イエスの栄光のお姿をイメージできるのは幸いなことです。
A・D・ヘールの臨終の時の記事を読みますと(『A・D・ヘールに学ぶ』二二〇頁)、その最期の言葉が載っています。 「美しい、美しい。主の栄光が私達をとりまいて輝いている。主の栄光が私達の内に光っている」。そして小さな声で「主の栄光はご自身の内に輝く」と口ずさまれたのでした。恐らく詩編の言葉であろうかと思います。主の栄光は天を超えて輝き(詩編一一三・四)、主は栄光の内に顕現されます(詩編一〇二・一七)。A・D・ヘールは自分の臨終の時に、主の栄光を仰ぎ見た。主の栄光が私たちを取り巻いている、きっと、恐れおののきつつも、喜びと平安に包まれた最期です。信仰が与えられてこそ迎えられる瞬間です。お父様を看取られたお嬢様にとっても同じでしょう。私たちもまた終わりの時には、栄光の内に顕現される主のお姿を思い、主の栄光が私たちを取り巻いている中に包まれる。何と有り難いことでしょうか。またどなたかをお看取りするときには、ご本人と共に主の栄光を仰ぎ望むことが出来る、またご本人が信じていなくても、信仰者の私たちはこれを信じてお見送りすることが出来る。幸いなことです。多くの日本人には出来ないのでは…。
復活信仰を与えられるということは、栄光のお姿を以て主イエスが再び来て下さることを信じるということです。人の子(=主イエス)は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来る(マタイ一六・二七)。栄光のお姿です。私たち罪人が栄光の主の前に立たされたらどうなるでしょう。続いてマタイ福音書は、が、その時、夫々の行いに応じて報いるのである。報いるという用語が気になりますね。報いを受けるとこんな自分は天国に行けないのではないか、と。もちろん、主イエスが来られて私たちの人生をご覧になる。良くないことは良くない、良かったことは良かったとご覧になられるでしょう。 報いるは元々「引き渡す」という言葉です。ですから、主がご覧になられた私たちの至らなかった所も罪も全てを主の十字架に引き渡す、十字架上に背負って下さったことが、栄光の主が来られる時に、はっきりする。そうなれば私たちは、十字架の主に「有り難うございます」と感謝するしかありません。その時、私たちは気が付けば、十字架の恵みを伴う主の栄光に包まれているのでしょう。それで私たちは栄光の主の御前に立てる。
詩編一一三編は続けてこう語ります。私たちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き、なお、低く下って天と地を御覧になる(五~六節)。 栄光の主がクリスマスの時、低く降って来られました。そして再び、低く降って来られます。そしてご覧になって為さることは、弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げ(七節)ということです。私たちを甦らせて下さるということでしょう。そして自由な人々の列に、民の自由な人々の列に返して下さる(八節)。「自由な人々」を他の聖書では例えば「高貴な人々」と訳しています。自由な人々、高貴な人々……。
これを甦りの時の光景、栄光に包まれる光景ととして思い浮かべて、私が示されたのはパウロの言葉です。信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その間かで最も大いなるものは愛である(一コリント一三・一三)。私たちが甦らされる世の終わりの光景、それは、信仰と希望、信じてきたこと希望してきたことを確認出来る光景です。信仰の通りであった、希望してきた通りのことであったとその光景を見る。そして、愛し合う。どれ程お互いに欠けがあり罪深かったとしても、赦し合い愛し合うことが出来る。そのような光景です。それは主の栄光に包まれた光景であるに違いありません。
私たちは、主イエスの復活を信じる、私たちの復活を信じる、栄光を携えて主イエスが来られることを信じる、その時の完成を信じる、主の栄光に包まれる光景を信じることが出来る。それは、信仰も希望も愛も裏切られる事はない。地上では愛しても応えられない、裏切られる、損をする経験をと信じて、私たちも、信仰と希望と愛に生きることが出来るということです。その意味では復活は、臨終の時の慰めだけでなく、信仰と希望と愛に生きることを支えてくれるものでます。ヘール宣教師もまた、信仰。希望、愛に歩まれた方でした。それは主の栄光の光景の中に、臨終の時に至るまで、包まれていたからに違いありません。