イザヤ四四・二一~二三
ルカ 二四・一~九
主のご復活の日、くら―い墓の中に入って確かめてみると、主イエスのご遺体が見当たらない。途方に暮れていた所に、輝く天使が現れました。くらーい墓の中も輝きに満ち溢れます。そして天使は高らかに言う。 「あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられた頃、お話になったことを思い出しなさい」(ルカ二四・六)。何を思い出さねばならないのかというと「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架に付けられ、三日目に復活する!と言われたではないか」。そこで婦人たちはイエスの言葉を思い出したのでした。この場面で「思い出す」という言葉は、ルカ福音書にだけある言葉です。ルカ福音書が強調しています。思い出しなさいと。そこで今日は思い出すことの意義を考えたく思います。
ルカは、紀元七〇年のローマ軍によるエルサレム神殿の崩壊という実際に起こった歴史上の出来事を既に知っていました。ですからルカ福音書が書かれたのはそれ以降です。パウロは六〇年代にローマで殉教していました。十二弟子たちも主イエスに招かれたのが若い二十歳の頃だったとしても、そこからもう四十年、つまり主イエスが天から降りて来られて地上を歩まれた、あの頃は、既にとっくに過去になっています。
過去になった過去の出来事を、私たちは、水に流して自分とはもう関係がない、と忘れていけばいいのでしょうか。
ルカは、忘れる訳にはいかない、と強調しているのです。思い出しなさい。教会は主イエス・キリストを思い出し続ける共同体です。キリストを忘れたらキリスト教会でなくなってしまう。
主のご復活の日、天使に促されてイエスのお言葉を思い出しました。それはしかし、昔そんなことがあったな、とただ感慨にふけった、ということではありませんでした。そして、墓から帰って、十一人と他の弟子たちに知らせた(ルカ二四・九)のでした。 つまり、婦人たちのその時の生きる力になっている。マタイ福音書ではこの時、彼女たちは、大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために 走って行った(マタイ二八・八)。走る程に生きるエネルギーになった。思い出した事は単なる過去ではなくなっている。
イザヤ書も語っています。思い起こせ、ヤコブよ、イスラエルよ、あなたは私の僕。私はあなたを形造り、私の僕とした。イスラエルよ、私を忘れてはならない(イザヤ四四・二一)。なぜ思い起こさなければならないのか。当時、イスラエルは国破れてバビロンに捕囚の身となっていました。エルサレム神殿は既に崩壊し、主なる神を拝む祭儀も礼拝もなくなっている。彼らは希望を失っていた。信仰を失っていた。神を失っていた。そのような彼らだから、神はイザヤを通して語りかける。思い起こせ。そして私はあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。私に立ち帰れ、私はあなたを贖った。贖った、それは買い取ったという意味で、あなたは私のものだ、と宣言して下さっている。贖ったことは今も有効。今も見捨ててなんかいない。何と心強いお言葉でしょう。だから、立ち帰れ。立ち帰るのは今を生きるあり方です。
続けて、天よ、喜び歌え、主の為さったことを。地の底よ、喜びの叫びを上げよ。山々も、森とその木々も歓声を上げよ。主の為さったこととは何か。歓声を上げるのは何故か。主はヤコブを贖い、イスラエルによって輝きを現された。
過去を思い起こすことから輝きが現れてくる。
新共同訳聖書では、イスラエルによって輝きを現された、と過去のようにも読めるように訳出していますが、聖書協会共同訳では、イスラエルの中に栄光を現されるからだ、と今これからのこととして訳出しています。新共同訳四九章三節ではあなたは私の僕、イスラエル。あなたによって私の輝きは現れる。ついでながら聖書協会共同訳では、カギ括弧をつけて 「あなたは私の僕、イスラエル。私はあなたの中で栄光を現す」。私は栄光を現すぞ、と強いご意志として訳出しています。
四四章に戻りますと、イスラエルよ、あなたは私の僕。私を忘れてはならない。ここから、イスラエルよ、お前は、私の栄光の輝きを現す存在なのだ、とイスラエルのこれから歩む責任と自覚を促しています。それは希望に溢れた招きです。
さて、今日、「河内長野教会物語二〇二五」の本文を一階小礼拝室に掲示しました。従来簡易版と言ってきましたが、内容は簡易のままなのですが、二〇二五年版としました。これから二〇二六年、二〇二七年と少しずつ補われ、より整った 「河内長野教会物語」になっていくことを願っています。
名称はともかく、私たちが教会の過去思い起こしていくとは、何の意味があるのか。百周年記念誌があるのに何故またわざわざ百二十年記念誌を作るのか。昔は良かったな、と過去を懐かしむためなのか。そうではありません。
けさ歌った、こどもさんびか一三五番2節に ♪沈黙はやがて歌に変えられ、深い闇の中夜明け近づく、過ぎ去った時が未来を開く。その日その時をただ神が知る♪ 過ぎ去った時が未来を開く。あのイスラエルの民も、あの婦人たちも、思い起こした過去の御業が、将来の成就へと導きます。
今回の「河内長野教会物語二〇二五」、短いものですけれども、第一部、第二部、第三部の構成にしました。第一部は百周年までをキリシタンや全誌を含め新たな視点を加えてまとめました。第二部は百周年記念誌にはないこの二十年間の記事です。第三部はこの二十年間に見えてきた将来の展望です。過去の記事で終わらず、展望を加えたことが大きな特色になると思います。その内容を今日の説教の言葉で表現するなら、これからも、河内長野教会はキリストの栄光の輝きを現す存在なのだ。私が現すぞ、という主なる神様の宣言、また私たちがそこに希望を以て歩む事への大いなる招きです。 まだ物語の冊子として出来上がる前のものですが、希望の宣言と招きを少しでも皆さんと共に分かち合いたいと願います。河内長野教会の歴史と展望を思い起こして、私たちは希望の内に輝く主のもとへと向かいます。この時、私たちは気が付けば、私たち自身が、教会自身が主の栄光に輝いている存在とされているに違いありません。