日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2025年4月20日 説教:森田恭一郎牧師

「執り成しの御腕の力、洗足に」

イザヤ五三・一~一二
ヨハネ一三・一~一二

『A・D・ヘールに学ぶ』にヘール宣教師の説教が載っています(二二六頁~)。その中で、神の国が建てられる土台が何であるか、キリストがお表しになりました、それは力のある者が、力のない弱い者を助けるために、その強い力を用いることであります。神の御子であられるキリストが弟子たちの足を洗われたことは如何に意味深いことであるか、分かりましょう、と書き記しております。

イザヤは、主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか(イザヤ五三・一)と問いかけています。そしてその答えは、父なる神様の御腕の力は主なる神の僕、苦難の僕に示されたのだ、ということです。人間の背きのために刺し貫かれる、人間の咎のために打ち砕かれる(イザヤ五三・五参照)その所に、主の御腕の力は表されたのです。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをした(イザヤ五三・一二参照)、その所に主の御腕の力は表されたのです。その力の表し方は、神の愛そのものです。A・D・ヘールは、キリストの洗足の行為にも表れていると理解しているようです。

 

主イエスは、私のしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、わかるようになる(ヨハネ一三・七)とお語りになりました。また、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。 「私があなた方にしたことが分かるか」とお語りになりました(同一二節)。弟子たちは、その時には分かりません。主であるキリストが弟子の足を洗う、これは逆転の行為です。神の御子が苦難の僕になる逆転の行為が証しされています。主であるキリストが弟子の足を洗う逆転の行為に、神の御子が人間の背きのために刺し貫かれる、人間の咎のために主が打ち砕かれる逆転の行為が証しされています。この時の弟子たちはそれが分かりません。

人間の背き、咎、その罪の故に、神は人間に力一杯、怒りをぶつけ怒りを注いでも良いのに、むしろ憐れみと愛を恵みを以て注いだのでした。この逆転の行為のお蔭で、主なる神は私たちを怒りの器から憐れみの器へと(ローマ九・二三参照)私たちを憐れみの注がれる器にして下さったのでした。これが神の御腕の力の示し方でありました。そして、主イエスの洗足の行為が、神の愛へと弟子たちを執り成します。洗足の行為は、単なる道徳的な謙遜の模範ではありません。キリストのみが担う贖罪の御業を証します。それは今の私たちには分かるはずであります。

洗足と共に聖餐式が信仰の内に明らかにしているのは、キリストの十字架の逆転です。怒りの器の私たちが神に愛されている、逆に、キリストは体が割かれ、血が流されることです。

聖餐式が信仰の内に明らかにしているのは、この神の逆転の愛へと、私たちを執り成す十字架の行為です。主なる神の御腕の力が、人間の罪を贖うための十字架の御業に示されました。

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