日本キリスト教団河内長野教会

メニュー

kawachinagano-church, since 1905.

説教集

SERMONS

2025年4月6日 説教:森田恭一郎牧師

「希望への、神の秘めたるご計画」

箴言二九・一八
コロサイ一・二四~二九

先週も『A・D・ヘールに学ぶ』から引用したのですが 「宣教と教育と奉仕を教会の三つの使命とする在り方は、キリスト教の宣べ伝えられる所、何処でも切り離せないものとして展開する」(六三頁)。河内長野教会はこのように、「宣教と教育と奉仕の三つを使命とする教会の在り方」 を選び取るように導かれてきました。その中で宣教は、礼拝と伝道です(広く言えば礼拝と伝道、教育、奉仕の三つ全体が宣教だとも言えます)。

二〇二四年度、今年は教会創立一二〇周年記念に向けて準備をしてきた一年でもありました。そして記念事業として四回の記念講演会を開催してきました。

第一回目は「明治期、新しい文化に開かれた河内長野とフロンティア精神」と題して、歴史家の阿部伊作氏をお迎えして、キリシタンやヘール宣教師たちの歩みから当教会の歴史的背景を学びました。

第二回目は「ワクワク生活提案企画」と題して、地域や店舗の再開発を手がけた武田宣詩氏をお迎しえて、地域における河内長野教会の会堂外観と内に入っては礼拝堂の持つ「行ってみたい、また来てみたい」、当教会の礼拝と伝道の可能性を学びました。

第三回目は「つながり、支えあいが広がるかわちながの」と題して、社会福祉協議会の土橋崇之氏をお迎えして、人々の交流と居場所作りの社会福祉に貢献できる当教会の可能性を学びました。  第四回目は「梦(ゆめ)を託されて」と題して、教育長の視点から教育改革にチャレンジされた和田栄氏をお迎えして、子どもの成長について学校、家庭、地域が役割と責任を担い合うコミュニティー作りについて、当教会も果たし得る可能性を学びました。

まとめますと第一回講演で歴史を振り返り、第二回講演で会堂や礼拝堂の価値から宣教の可能性を学び、第三回講演から社会福祉を担う奉仕の視点を学び、第四回講演から教育コミュニティーへの参加の教育の視点を学びました。

一二〇周年を記念しようと思い始めた動機の一つは、地域の協力があって教会が支えられてきたことの気付きでありました。思えば、石田たりよ氏が日曜学校の活動をするのに長野神社社務所を借りたこと、ヘール宣教が集会をするのに大日堂のお寺を、また西條さんのお家をお借りできたこと、ここから始まる当教会の歴史は地域の協力あってこそ成り立ってきたことを示しています。

四回にわたるご講演はいずれも地域との関わりを示唆しています。つまりあるいは「地域の信頼に応える教会」の視点、「社会資源としての教会新発見」の視点から当教会の「宣教・教育・奉仕の三つを使命とする教会の在り方」の方向性、あるいはこれからも通用する可能性について、更に言えば当教会の夢(梦)・幻について、各々のお立場からエールを戴くご講演となり、勇気を得ました。今回の一二〇周年記念への営みの中から、地域との関わりから広がる宣教・教育・奉仕の在り方を巡っての幻を示されてきたと思います。ここまでキリストが聖霊を以て先んじて導いておられると思い至っております。

今日の旧約聖書は、幻がなければ民は堕落する(箴言二九・一八)と語ります。地域との関わりを考えて地域伝道に邁進していく幻。それは儚いイリュージョンではなく、聖霊なる神様が既に描き見ておられ、そこへ導こうとされる神様のご計画=ヴィジョンです。幻は私たちに新たな可能性を開かせてくれます。教会がいわば自分たちのためだけに内に籠もって礼拝をささげること以上の可能性を開かせてくれます。家族友だち礼拝もいわば伝道礼拝ですが、礼拝に繋がる人的広がりの可能性を開かせてくれます。

この箴言の言葉は聖書教会共同訳では、幻がなければ民は散り散りになると訳出しています。口語訳聖書は民は我がままに振るまうと訳出しています。堕落するとは、日本語では道徳的な堕落を思い起こさせますが、どうやらそうではなくて、散り散りなる、我がままに振る舞うことです。民の思いが一つにならない。民は皆、我がままで他人任せで、自分のことだけ考える。それは自分の世界の中だけで生きる一種の引き籠もりです。隣人に、そして神様に心を開かないで、その結果、散り散りになっていく。そうやって民が、教会が堕落していく。

今年度二〇二四年度、河内長野教会は神様から幻を与えられた。地域の信頼に応えて、改めて宣教・教育・奉仕の営みに歩む幻です。因みにひと言付け加えますと、地域の信頼に応えて地域と積極的に関わるのは、地域に仕えることでしょうか。そうではありません。私たちが仕えるのはキリストであり、その体なる教会です。教会がキリストに仕えるのに、地域を覚えつつ関わり、宣教・教育・奉仕の営みに歩みます。その歩みへの幻を与えられました。私たちはこの幻に心を開きたい。感謝すべき事です。そう思われませんか。

 

さて、パウロの言葉。自らの伝道者としての喜びを語っています。今や私は、あなた方のために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けた所を身を以て満たしています(コロサイ一・二四)。当時のことです。時の為政者やユダヤ教徒から迫害を初めとする苦しみがあった。人々の無理解もあった。パウロはそれらの苦しみを、キリストの苦しみの欠けた所を身を以て満たしているのことなのだ、と気付いた。その理解をここで語っています。

これはキリストの十字架の贖いに欠けがあったということではありません。十字架も復活も一回限りで完全な御業です。十字架のキリストの側に欠けがあったというのではありません。その福音を人々が受け取っていないという人間の側の我がままさがあるという欠けです。私たち信仰者は御言葉と聖餐を以て福音を受けとめています。でも未だ受け取っていない人々が大勢いる。

この人々に、御言葉を余す所なく伝えるという務めが残されており、パウロはこの労苦と喜びを「欠けを満たす」と語っているのでしょう。

パウロは、この務めのために、私は教会に仕える者となりました(コロサイ一・二五)と語ります。教会に仕えるパウロの務めは、そのまま教会の務めでもあります。御言葉の内容をここでパウロはこう語ります。世の初めから代々に亘って隠されていた秘められた計画。つまりヴィジョン、幻です。この計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされた。この神様の御心、ご計画、ヴィジョン、幻をキリストが明らかにされた。このキリストに参与していく教会の務め。これは栄光の希望です。

教会に差し出されている幻、夢、希望です。この希望に向けての歩みにおいて、私たちは散り散りではなく、心一つに合わせたい。

幻。そのための具体化は来年度からですが、方向性は今年度示して戴けた訳です。一二〇周年の二〇二五年、この年を後から振り返れば「一二〇周年を機に新たな歩みが始まった年だった」、と思い起こしてもらえる年になれば幸いなことです。

カテゴリー

過去の説教