申命記一四・二八~二九
ヤコブ 五・一三~一六
河内長野教会は「宣教・教育・奉仕」活動の三本柱として掲げてきました。教会の内部に向けて、礼拝をささげ 教会学校の働きがあり 相互牧会があります。また地域にあっては関連団体との連携しながら、教会は伝道を 清教学園が教育を 泉カナン会が福祉を担ってきました。地域との関わりを大切にしてきたということでしょう。
「自分のようにあなたの隣人を愛しなさい」という律法の言葉、今日読みました申命記は、その具体的な例を挙げています。三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、待ちの中に蓄えておき、あなたの内に嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることが出来るようにしなさい(申命記一四・二八~)。新約聖書の時代も含めて政府が支えを必要とする人たち (この記事では寄留者、孤児、寡婦) への福祉サービスを提供するということはありませんでしたから、信仰者たちはこれを自分たちの役割だと考えた訳です。
使徒言行録にも日々の分配のことで仲間のやもめたちが軽んじられることがないように執事職を選び出す記事が載っています(使徒言行録六・一~参照)。 社会福祉は近代に至るまで教会や修道院の務めでした。社会福祉国家観が当たり前になるのは現代になってからです。
『A・D・ヘールに学ぶ』の記事でも、孤児のための教育(七六頁)や、A・D・ヘールは教育担当でしたがミスレヴィットは孤児院を担当する (八五頁) との記事があり、宣教師たちは孤児たちのことも執り成しの祈りと業として覚えていた訳です。それは申命記の孤児たちも含む隣人愛の思いを受けとめることになるでしょう。この南河内には乳児院やその働きを担う所があるのでしょうか。この地域の福祉の課題の一つだと思います。私たちも覚えて祈りたいことです。もっとも、教会が社会に目を向けて祈るべき事は山のようにある訳です。それが本当に自分の祈りや業になるには、一般論としてではなく、実際に目の前に親のない乳児や孤児が現れ、祈りと業の必要が見えてきて、自分の召命意識と結びつくのでしょう。
今日は新約聖書からヤコブ書を選びました。あなた方の中で苦しんでいる人は祈りなさい。喜んでいる人は賛美の歌を歌いなさい。あなた方の中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。罪を告白し合い、互のために祈りなさい(ヤコブ五・一三~)。ここは繰り返し命令形です。苦しんでいる人は祈りなさい。賛美の歌を歌いなさい。教会の長老を招きなさい。長老は祈りなさい。罪を告白し合いなさい。互いのために祈りなさい。長老は、そして牧師も招かれて出て行き、そして祈ります。
以前ヤコブ書の説教の時にも紹介したのですが、『慰めのコイノーニア』(交わり)、の本の中で、丁度、ヤコブ書のこの箇所を引用しておりました。「牧師、長老に留まらず、慰めの共同体を造るために主に召されている者たちが力を合わせて『訪ねる共同体』として、キリストの教会を再生させる責任があるのではないでしょうか。そのために知恵を集め、また自分を訓練するという課題と新しく取り組みたいと祈り願います」。皆さん、長老や牧師を招いて祈ってもらって下さい。
「私のために祈って下さい。そのために私の所にも来て下さい」と言って下さい。私自身は、学校、施設、病院にはお訪ねしているのですが、教会員の皆様の所にお訪ねすることが少なく申し訳なく思います。招いて戴くとお訪ねしやすいです。招くことと訪ねる事、どちらが後先ということではありませんが、遠慮なく招かれお訪ね出来る相互牧会の「訪ねる共同体」を形造りたいです。その一環として、担当の方がお見舞いの葉書をお送り下さるのは有り難く大切な教会の働きです。
もちろん私たちの祈りは、貧しく心もとない祈りかもしれません。が、教会が執り成しの祈りのことを語り、祈ることが出来る根拠があります。それは、主イエスが祈って下さるからです。主イエスはペトロのために祈りました。「しかし私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ二二・三二)。それで力づける」執り成しの祈りを祈ることが出来ます。
このことは、教会員同士の相互牧会に留まらず、地域の皆さんともきっと可能性があるのだと思います。既に私たちは関連の学校や施設と結びあい支え合う素地は与えられています。
教会創立一二〇年周年を迎えるにあたり、その当初から地域の皆さんの協力があって今日に至っていることを思うと「地域の信頼に応えて」という認識を更に深めたいと願っています。それで今年度は「社会資源としての教会新発見」という主題の下で記念講演会を開催しています。
そして今日は、河内長野市福祉協議会の方をお迎えして、地域から見た教会への期待を伺い、教会の地域における役割について考えたいと願っています。
前回の記念講演会では、塔のある教会が町にあって慰めになり得ることを意識しながら、教会堂や礼拝、また教会堂での働きがワクワクする空間であることを気付かせて戴きました。今回の講演では、地域の皆さんに教会に来て戴くだけでなく、当方から出て行ってワクワクしてもらえないか、そのようにして教会が馴染みのある存在になる可能性はないか、その気付きをもしかすると伺えるのではないか、と思っております。
私たちは、一二〇周年を機に、お互い同士も祈りつつ、地域の皆さんとも少しずつ、互いを結ぶ支え合いを形造っていくのです。