日本キリスト教団河内長野教会

メニュー

kawachinagano-church, since 1905.

説教集

SERMONS

2024年11月17日 説教:森田恭一郎牧師

「天国を垣間見る」

詩編 二三・一~三
マタイ一七・一~八

本日の聖書箇所は、主イエスのお姿が輝いた山上の変貌の場面です。その聖書の言葉お言葉を聴きましょう。六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった(マタイ一七・一~二)。三人の弟子たちは主イエスの本当のお姿、天上のお姿、永遠のお姿を一瞬、目にしました、目撃しました。日頃見たことのない、全然知らなかったお姿を垣間見ました。  今日は、天に召された方たちを覚えて、皆様と共に召天者記念礼拝をささげています。私たちが知っているのは、あの親しい人が亡くなられたということです。そして私たちもいずれ死んでしまうということです。死の力に勝てる人はいません。ですから私たちが通常知っていることは、死こそが私たちの終わりの姿だということです。そして骨になり、お墓に納められて終わりです。     亡くなってどうなるのか、私たちは知りません。それを全部知っているのは主イエスだけです。そして主イエスと出会った弟子たちが少しだけ知り得たのでした。それを聖書は書き残しています。

三人の弟子たちがこの日知ったこと、聖書が今日の箇所で書き残したことはこれです。顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった、この主イエスの姿です。それは、弟子たちが日頃知っていたのとは全く異なる主イエスのお姿でした。私たちが死んだらどうなるか、その天国の様子を聖書はあまり語りません。でも今日の聖書から確かなことがあります。それは、輝く主イエスがおられるということです。死んだら真っ暗闇ではない。輝く主イエスがおられます。その天国の光景を聖書はこうも表現しています。この都には、それを照らす太陽も月も必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである (ヨハネ黙示録二一・二三)。あるいはこのような光景かも知れません。主は羊飼い、私には何も欠けることがない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる(詩編二三・一~三)。明るく爽やかな光景です。

 

病院で時折、患者さんからこう言われることがあります。私のような善人でない者が天国に入れてもらえるだろうか、と。皆さんは、自分が天国に行けると思いますか。あるいは天国なんかないよ、死んだらそれでお終いだよ、と思いますか。日常の経験から知っていることは、死んで骨になってお墓に納められることです。ここから考えれば、それでお終い。ここから先は私たち人間には分かりません。天国があるということは、人間には証明できません(もっとも、天国はない、とも証明できませんけれど)。            でも私たちに出来ることがあります。信じることです。病院で私は、この患者さんも天国に行けると信じて、こっそりと輝くイエスさまにお委ねします。しかも安心してお委ねします。そこに私たちも招かれます。何故なら信じているからです。

今日の聖書個所の始めに、六日の後とあります。

六日前に何があったかと言うと、主イエスが十字架にかかるという受難予告です。そしてモーセとエリヤと話し合っていたのも、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について(ルカ九・三一)です。十字架の罪の贖いのことです。山から降った後にも、苦しみを受ける受難予告をしています(マタイ一七・一二)。十字架に架けられて死んでしまうこの人が、神様ご自身であるということを、十字架の死が無意味なしではなく贖罪の死であることを、主イエスの輝くお顔、お姿で、私たちに現して下さった訳です。       主イエスは天におられた神様であるお方です。 そのお方が天から降ってこられて人としてマリアからお生まれになった。主イエスは、私たちが死んでしまうことまで同じく徹底的に私たちと同じ人となられました。ただ主イエスの最期は、十字架で人間の罪と裁きとしての死を私たちに代わって担う死となりました。そして死人の内から甦られました。                   それで、私たちの死の意味が変わりました。ただの終わりの死でもなく、裁きとしての死でもなく、天国への入口としての死に変わりました。だから私は、患者さんを、そして私たち自身のことを、安心して主イエスに委ねることが出来ます。

 

主イエスのお顔が輝いた直後、今度は、光り輝く雲が彼らを覆った(マタイ一七・五~)のでした。旧約聖書でも、湧き起こる雲はそこに見えなくても神様がおられることのしるしです。そしてこの雲の中から声が聞こえてきました。「これは私の愛する子、私の心に適う者」。十字架にかけられるこのイエスが私の心に適う、私の愛する子、神の御子なのです。                そしてもうひと言。「これに聞け」。私たちはあの三人のお弟子さんたちのように、主イエスの輝くお姿を今、直接見ることは出来ません。でもそのお言葉を書き残した聖書から毎週礼拝のこの場で聞き続けて、信じるように、と招かれています。この場面の終わりに、主イエスの方から近づいて彼らに手を触れて下さいました。弟子たちを祝福して下さいました。

カテゴリー

過去の説教