日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年11月10日 説教:森田恭一郎牧師

「まず器、そして道具」

詩編七一・一~三、二三~二四
ローマ六・一二~一四

先週木曜日一〇月三一日は宗教改革記念日です。前回の繰り返しになりますが、宗教改革において言われることの一つが宗教改革者ルターの「神の義の再発見」です。それまでは、神の義は義でないものを徹底的に裁く義でありました。それでルターは当初、詩編の次の聖句に戸惑いました。あなたの義をもって私を助け、私を救い出して下さい(七一・二、口語訳。新共同訳では御業によって助け、逃れさせて下さい。これは意訳です)。 罪人を裁くはずの神の義なのに、なぜ、その義を以て助けて下さいと祈るのか。ルターはこの聖句に従っていく中で新しく気付かされていきます。罪人が赦されて神様に受け入れられる。そのために、キリストの義が転嫁されて我々の義となる。いわゆる責任転嫁の反対でキリストの義が私たちに転嫁され、プレゼントされて私たちのものとなるのだと。これを神学用語で「神の受動的義」と言います。ルターはこれを「義人にして同時に罪人」と表現しました。

ここから先週は、土の器に思いを馳せました。器は器の中に何かしら受けるためのものです。罪人は「土」の器ですが、受動的に受け取るだけで良い、キリストの義という宝を、土の器に納めている(Ⅱコリント四・七)ということになります。

 

そしてもう一つ考えれば、土の器である私たちは、神様の器の中に入れられている。神様の器ですから、壊れやすい土の器ではありません。この大きな器の中にしっかりと私たちを包み込んで下さる。キリストが十字架において私たちの裁かれるべき罪を負い死んで下さった。これによって、私たちは神様の懐の中に包み込まれ、神様の器が愛という大きな器であることが、信仰を通して分かりました。そして不思議なことにキリストは、キリストの命でもって、私の杯を溢れさせて下さる(詩編二三・五)と約束しいています。                             そこで詩編七一編を味わいます。新共同訳の成句で言いますと、七一編は恵みの御業(口語訳ではあなたの義)を繰り返し語ってやみません。私の口は恵みの御業を(これを言い換えて)御救いを絶えることなく語る(七一・一五)。 ひたすら恵みの御業を唱えましょう(七一・一六)。 今に至るまで私は驚くべき御業を語り伝えてきました(七一・一七)。 神よ、恵みの御業は高い天に広がっています(七一・一九)。 あなたが贖って下さった私の魂はあなたに褒め歌を歌います。私の舌は絶えることなく恵みの御業を歌います(七一・二三~二四)。 最初は、助けて下さいと救いを求め、救いを受け取るだけだったのが、その後には、恵みの御業を語ります。歌います、と喜びに溢れています。しかも、私は力を奮い起こして進み出て、ひたすら恵みの御業を唱えましょう(七一・一六) と前に進み出て生きて行く姿になっています。    この姿は器に対して道具と言えるでしょう。救いを受ける「器」から救いを語り歌う「道具」になっていく。器から溢れ出る救いを歌い語り伝える、「道具」になっていく。                                     実は『A・D・ヘールに学ぶ』の中で、中山昇は宣教師の姿を 「神様の道具としての光栄を戴くことになる」(四一頁)と書き記しています。しかも道具たるヘール宣教師兄弟は、日本語修得にとっても難儀したようで、J・B・ヘールによるとその様子は、我々は逞しい男が走っているような気分ではなく、手負いの蛇があえぎあえぎ這っていくようなものだった。また、日本伝道四十年を経た二人とも「カミ様」と言えず「カメ様」としか言えなかった。発音だけではありません。日本語は下手なままだった。だからヘールの日本語は下手だ、下手だと皆が言う。しかし、その人たちはカミ様をカメ様と言う説教に、おかしがるどころか、ひと言も逃すまいと耳をたてたのだから、かえって先生の人柄の偉大さと、その中に含まれる福音の本質が光り輝いているのではなかろうか。それで神様の道具としての光栄を戴くことになると中山昇は感激しながら書き記す訳です。                               私たちの信仰者としての姿もまた、手負いの蛇があえぎあえぎ這っていくようなものかもしれません。私たちの実際の歩みから言うと「私は信仰者です」と胸を張って言えるような者ではない、と大体思っていますね。そんな私たちが、神様の道具としての光栄を戴くなんて、尚さら出来るはずがない……。                 パウロはこの辺りのことをどう語っているでしょうか。却って、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また五体を義のための道具として神に献げなさい(ローマ六・一三)。 パウロも私たちを道具として表現しています。口語訳聖書では武器と訳しています。道具は例えば、刃物は兵士が用いれば相手を殺す武器になるでしょう。でも板前さんが用いればおいしく食事を造るための道具になるでしょう。神様がヘール宣教師を用いると、日本語は下手なままで、そこに福音の本質が光り輝いてきたという訳です。        パウロは私たちに、五体を義のための道具として神に献げなさい、と私たちの業、行いとして語っています。こんな罪だらけの自分なんか、と思うことがいつもなのですが、パウロはあるがままの自分を用いるに当たって大事なことを語っています。罪は、最早、あなた方を支配することはないからです。あなた方は律法の下にではなく、恵の下にいるのです(ローマ六・一四)。律法の下では、自分の力で献げねばならないことになります。                         私たちは、月曜日からの週日の生活にあっては自分の弱さ罪深さに負ける自分を思います。世の完成前の姿も未完成ですから罪を抱えています。そのような中で、教会の礼拝生活の中で経験することは、自分も恵の下にいる、この土の器でしかない自分に恵みが注がれている、土の弱さ脆さを抱えたまま、キリストの恵みの器の中に包まれている、このことを経験します。それなのに、あなたはどのような信仰者ですか、と問われるときに、週日の罪の下にある自分の姿を思い起こすのはどうしてでしょう。主日の恵みの下にある自分を思い起こして良いのではないですか。パウロはそれを死者の中から生き返った者として神に献げ、とまで言い切ります。まだ死んでもいないのに生き返った者なんかではないと考えがちです。生き返った者としての実感がないかもしれません。だから例えば、重い病で闘病する時、つい思ってしまいます。以前には家では大黒柱、会社では有能な会社員として役立っていたのに、今では役立つどころか迷惑かけるばかり…と落ち込むばかりです。                         でも信仰者の私たちが思い見ることは天の国にいる自分の姿、死者の中から生き返った者の姿ではないですか。そしてこれは元気な内からでも言えることです。このことを皆で分かち合いたい。  この後、聖餐式です。パンと杯はキリストの十字架の贖いの出来事を指し示しますが、併せて聖餐卓は天の国の食卓を指し示しています。キリストが生き返られたから、私たちは生き返った者です。キリストが仕えて下さるから、私たちも仕えて生きます。キリストがご自身を献げて下さるから、私たちも道具として献げて生きています。

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