エゼキエル四三・二七
Ⅱコリント 五・一六~二一
先週は『A・D・ヘールに学ぶ』の新宮伝道の記事にありました十津川の隠れキリシタンの話、彼らが御先祖様から聖書の物語を語り継いできたことを紹介しました。そこから、キリスト教会は、アブラハム以来の神の御名、使徒たち以来のイエス・キリストの御名を語り継いできたことを説教致しました。今日は、キリストの御名を語り継ぐということは、和解の福音を語り継ぎ、その恵みに生きることだ、と申し上げたいと思います。
今日は『A・D・ヘールに学ぶ』(七一頁~)の新宮伝道の第二のエピソードの記事を紹介します。進歩主義者で西洋文明を尊敬した横井小楠(よこいしょうなん)が、キリスト教を奉ずる売国奴と噂され、徒党をくむ二十四人の襲撃を受け、あたら(惜しくも、もったいない)壮年の生命を散らすことになる(一八六九年)。その逃亡者の一人が十津川に流れて来ていたのである(前回の隠れキリシタンの人とは別人)。彼は常時、心に痛みを覚えていた。痛恨の情に苦しむこの男は、ある日ヘール先生の集いが新宮であると聞いて出かけて来た。その集まりが終わった時、涙ながらに小楠襲撃の一件を告白したのである。キリスト教に好意的だった小楠を襲撃したこと、その後キリスト教は悪くないことに気付いたのでしょう、心に痛みを覚えてヘールの集会にやって来ました。どころが、折も折、その場に小楠身内の者が居合わせて、極めて緊張した空気になった。仇討ちを良しとする文化がまだ残っている時代です。どうなったでしょう。続けて記事を読みますと…、 しかし今は、キリストにあって恨みの中垣を除く教えに導かれた者達である。越えがたい報復の思いを絶って、双方が手を握り合い、翌日二人は共に主の礼拝に列したということである。報復、リヴェンジを断ち切って、仲直りしたというか、新しい人間関係を作り出した訳です。共に神に礼拝をささげる中での、本来の人間関係の回復、レジリエンスです。中山昇は語ります。福音が和解の福音であるということが、実際実を結ぶ姿を目の前にして、新宮の伝道は開けていった。ここに福音による出来事が起こりました。 「恨みの中垣を除く」、そして「和解の福音」という言葉から思い起こす聖句があります。一つ目は実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての中垣を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を破棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました(エフェソ二・一四~一六)。て二つ目は、今日のⅡコリント五章の聖句を思い起こします。 もうあの人の顔も見たくもないという恨み、この聖句では敵意と訳しています。敵意、その隔ての中垣をキリストは取り壊し、敵意を滅ぼして下さった。私たちは、この恨み、敵意を取り除いて人間関係を回復する、出来るでしょうか。正直な所、私たちにはなかなか出来ない事です。それは単なる感情に留まりません。相手は悪いことをした、なのに謝っても来やしない、そんな相手を赦せるかという正義感、義憤があるからです。思えば、同じ事は神様だって言いたいに違いない。お前の顔など見たくはない。赦せるものか、と。 でも神様はそれを乗り越えられました。聖書が告げていることは、敵意という隔ての中垣にしても和解にしても、神と人間の間の敵意です。神と人間の和解です。その敵意をどうやって取り除いたかというと、まぁいいよ、いいよ、という甘やかしではなく、和解のためのキリストの十字架を用意された。罪の責任を負う十字架を用意された。キリストは十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされましたのです(エフェソ書)。また神は、キリストを通して私たちをご自分と和解させ (Ⅱコリント五・一八) たのです。神はキリストご自身を、旧約が語る和解の献げ物(エゼキエル四三・二七)となさいました。パウロはそれを言い換えて、キリストの十字架は、人々の罪の責任を問うことなくという出来事であり、罪と何の関りもない方を、神は私たちのために罪となさいました(同五・二一)という福音の出来事として語ります。 このキリストの十字架による神と人との和解の出来事の上に、私たち同士の敵意の隔てが取り壊され、仲直り、和解が起こり得る訳です。パウロは語ります。和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになり(Ⅱコリント五・一八)、和解の言葉を私たちに委ねられた(同一九節)と。 和解の言葉を委ねられ和解のために奉仕する任務とは、何よりも和解の福音を語り伝えることです。神と和解させて戴きなさい(Ⅱコリント五・二〇)と。けれどもそれは、ただ語り伝えることに留まらないで、キリストの十字架によって神様から和解を受けることであり、その和解を受けたことを通して、自分が相手の罪を赦し、相手と和解できる心を持つようになり、実際、相手と和解の握手が出来るようになることに至るものです。先の新宮での出来事、横井小楠を襲撃した男の人と小楠の親戚の人が、手を握り合い、双方共に自分と相手が神から和解を戴いている者として受けとめ合います。今後、誰をも肉に従って知ろうとはしません(Ⅱコリント五・一六)とありましたが、肉に従って知るとは、相手の気持ちや行ってきた業によって相手を判断することです。でも肉に従って知ろうとはしない。すなわちキリストから和解を受けた者として認め合う。そして和解の神様に感謝しつつ、翌日共に出席して礼拝をささげた。この出来事は、福音による和解の出来事を見事に証しています。 この二人の姿と、礼拝で語られる和解の福音の言葉の二つがあって、新宮の教会の伝道は展開していく訳です。礼拝で語られる和解の福音の言葉と、和解に生きる教会の人たちの姿がある。もし、一方で、そこに和解し合う二人の姿あるだけなら 「あの人たちは良かったね、仲直り出来たんだね」 とその人たちのこととしてのみで終わります。他方、和解の福音の言葉が語られるだけなら、聞く人は 「あっそう、聖書の話だね」で終わってしまします。 でも両方があると、福音の言葉を、理屈を超えて納得できるようになる。キリストと繋がる。そして和解の福音の言葉と、和解の福音に生きる人の姿、この両方があって伝道は実を結びます。加えて自分自身も、和解の福音に生きる一人とされて行きます。キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらは全て神から出ることで…(Ⅱコリント五・一七~)。自分の力では心からは赦せないものです。でも神から出てくる和解、キリストの業による和解です。聖霊の導きによって、和解の福音をこの自分自身に戴いて、神様との関係も、相手との関係も新しくされます。