日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年9月29日 説教:森田恭一郎牧師

「感謝かな、隠れキリシタン」

創世記 四八・一五~一六
使徒言行録七・六~七

今日の説教題を「感謝かな、隠れキリシタン」と致しました。私は以前、小林勝さんからあるお話を伺っておりました。河内長野はかつてキリシタンのいた所だ。その事があるから、明治期以降、キリスト教が受け入れられたのだ。ヘール宣教師によって教会が建てられたこと然り、戦後の清教学園設立の市民の協力があったこと然り。河内長野教会の伝道はこの地域の協力を得られて成り立っているのだ。それを忘れてはいけない。このことを伺って。何故、数百年も前のキリシタンのことが、明治期、あるいは戦後の河内長野教会のキリスト教受容に繋がるのか、ピン来ないまま、私はただただ、そうなんですか、とお話を伺うばかりでした。

壮年会の例会などでも、河内長野には隠れキリシタンの遺跡があると伺っておりました。それでも私にとっては、隠れキリシタンは過去の遺跡でしかなかった。それがどうして河内長野教会とキリスト教受容に繋がるのか分からないままでした。

 

でもこの夏、阿部伊作氏の記念講演と『A・D・ヘールに学ぶ』の記述から、ようやく、気付いたことがありました。隠れキリシタンの存在があって、数百年前のキリシタンと河内長野教会が繋がるのだ、と。これは皆さんにとっては、以前から分かっていたことですよ、ということであるかも知れません。                  阿部伊作氏の記念講演の中で河内長野のキリシタンについてもお話を伺いました。テープ起こしをした一部を紹介します。

生駒山麓の飯盛山城の三好長慶がキリシタン。一五六四年飯盛山で三好の家臣七二名が洗礼を受けた、河内長野や和泉を支配下においたこともあった。キリシタン研究家は「一六世紀の関西はキリシタンの聖地だった」と言う。烏帽子形の城主はキリシタンで、堺出身の伊地智文太夫(いじちぶんだゆう)。関西でキリシタンたちが生まれ、ここから散らされ九州に行く。九州で一つの文化を咲かせた。また東北のキリシタンの研究もあるが、散らされて行った各地のキリシタンたちを支えていったのも、関西のキリシタンだった。河内長野のキリシタンたちは、大事な働きをしたのだろう。一五八七年に秀吉の伴天連追放令が出るまでのおよそ二十年間、河内長野にもお寺の上に十字架を付けた諸教会があったのだ。

明治期に至る三百年間の河内長野の隠れキリシタンについて河内長野市史にも記述がある。市史によれば隠れキリシタンがいたのだろうという記述の表現になっている。この時代、カトリックは仲間意識と助け合う意識があり、彼らの共同体が山里の方にあったのではないか。

 

そして今日、改めてご紹介したいのが『A・D・ヘールに学ぶ』の「新宮伝道」(七〇頁~)に載っているエピソードです。              十津川から新宮へ出稼ぎに来ていた一人の男が、キリスト教の集まりがあるというので恐る恐る出かけて来た。彼には心の内に秘める隠し事があったからである。しかし、集会が始まり、話が進んで行く内に、この男は先ほどのおどおどした態度とは打って変わって、歓喜に満ちた顔色になった。話が終わるや否や、洗礼を受けたいと願い出たのである。一同は驚いた。そしてその不当を説明しようとしたが、彼はそれを打ち消し語り始めた。

「私のご先祖様は皆、信長公の時代からのクリスチャンであって、キリシタンが禁じられた時も御先祖様は秘かに信仰を持ち続けました。私たちが基督教徒だと分かった時、十津川に追放されたのです」。

この記事から推察したのは、キリシタン大名やその家臣たちは、その後九州に出かけ、島原の乱などに加わり討ち死にしたり、長崎で処刑、殉教したりしていく訳ですが、河内長野のキリシタンには、庶民のキリシタンもいて、この地に残り、山間部に小さな共同体を作りひっそりと生活する。それが遺跡となって今日残っている。けれどもキリシタンであることを隠し切れないで見つかってしまい追放され、そうやって十津川に来た人たちもいた。この人たちが、河内長野の住民だったのか、それとも飯盛山の地域の住民だったのか、分かりませんが、およそ三百年に亘り信仰を保って、そしてA・D・ヘールに新宮で出会うことになる。このエピソードで彼は続けてこう語ります。

「私の思い出の一つは、聖日が廻って参りますと、父が屋敷内をよく調べてから門を閉め、家族の者を座敷に集めて、小さな声で聖書の物語をしてくれたことです。私共が聖書だけでなく、キリスト教に関係する一つでも持っておれば、流刑か投獄されるので何一つ持っておりません」。

これを読んで驚くべきことは、手元に聖書はないのに三百年間、聖書の物語を語り継いで来たということです。十津川の彼は、戦国時代の伴天連の宣教師たちから聞いた話をどれだけ正確に語り継いでいたのか、心許ない思いもしますが、それでも、聖書の物語を知っていた。新宮でのヘール宣教師の話と響き合う所があったのでしょう。御先祖様が語って来た神様がいらっしゃると示されに違いない。彼は歓喜に満ちた顔色になったのでした。

このエピソードにおける三百年前のキリシタンと明治期のヘールとをつないだのは、この隠れキリシタンの聖書物語の伝承であった訳です。同じようなことが河内長野で起こったのか分かりませんが、長野の人々の心の中に、キリストの福音と響き合う何かがあって、それで明治期以降のキリスト教受容に繋がっていったのかもしれません。キリシタンの遺跡を残した子孫の人たちとお目にかかり、その伝承を伺うことが出来たら、そして明治期以降のキリスト教についてどう思われたか伺うことが出来たら、三百年前のキリシタンとヘールが、更に今が繋がってくるかも知れません。

 

さて、今日の使徒言行録の記事は、最初の殉教者ステファノの旧約聖書物語を語り継いでいる言葉の一部です。アブラハム―イサク―ヤコブ―十二人の子供たちの話の部分ですが、創世記の記事によれば、ヤコブは、エジプトに導き入れたヨセフに、祝福を祈りながら、こう言い遺します。「どうか、私の名と、私の先祖アブラハム、イサクの名が彼らによって覚えられますように」(創世記四八・一六)。先祖の名を覚えてと言っていますが、先祖崇拝ではありません。この先祖に現れた神を覚えるようにという意味です。        そして、ヨセフの後、最初は彼らに好意を示してくれたエジプトの王様が代替わりして、イスラエルの民をこき使う王様になった。それが四百年続く。この四百年の間、アブラハム―イサク―ヤコブに現れた神の名を覚え続けていく。そしてモーセの時代になって神が現れる。「私はあなたの父(父祖)の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト記三・六)。  モーセ五書などイスラエルの歴史書が編纂されたのは紀元前五百年代、モーセの時代からおよそ七百年後です。この間、今日のような整った旧約聖書はなかった。でもアブラハム―イサク―ヤコブに現れた神の名を覚え続けていた。だからモーセも誰の声だかすぐ分かる訳です。        そこから更におよそ五百年を経て、キリストが到来することになります。そして初代教会のステファノがアブラハム以下の族長たちの名と、彼らの名と共に彼らに現れたイスラエルの神を旧約聖書に基づいて語っている。使徒言行録のこの七章の箇所はそれを記している。初代教会の信仰者たちは、イエス・キリストを旧約聖書が証ししている真の神の救い主として受けとめ信じることが出来ました。それはイスラエルの民が、その時、その時の時代を貫いて、アブラハムらの名前、彼らに語られた神、聖書を語り継いで来たからです。

 

そして私たち。私たちは十字架にかかって罪を贖い、甦られて永遠の命を明らかにされたイエス・キリストの御名を語り継いでいます。キリストにおいて御自身を顕わされた真の神様がいらっしゃる、と確信します。二千年のキリスト教会の歴史の本質はこれを語り継ぐことです。もちろん人間の形作る歴史ですから、過ちを含んだ人間の罪の歴史でもあります。

教会創立一二〇年を迎える私たちの教会も、その歴史の中でいろいろあったでしょう。人間の歴史ですから。でもその歴史を貫いて、罪を贖い給う真の神がおられることを経験してきたはずです。一二〇周年記念誌に、教会の歴史の中に、真の神、キリストがおられてきたことが少しでも明らかになればと願います。教会が働きかけたことに市民が応えてくれました。教会の弱さを市民が応援してくれたこともあったのではないでしょうか。色々ある中、聖書を語り継いで来た自らの教会の歴史を通して、また私たちも一人ひとりも教会に繋がって来たことを通して、神の御子キリストのいらっしゃることを経験してきているのです。

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