エゼキエル二〇・四四
エフェソ 一・一七~一九
河内長野教会は来年七月、教会創立一二〇周年を迎えます。教会の創立者は、一番の基は神さまご自身ですが、当教会の歴史上の創立者は、アメリカのカンバーランド長老教会から派遣された宣教師、A・D・ヘールです(一八四四~一九二三)。そこで最近の説教は『A・D・ヘールに学ぶ』の書物から引用してお話しています。この書物の著者は中山昇、清教学園の創立者の一人です。 創立者はA・D・ヘール宣教師だと申し上げましたが、一人で伝道したのではなく弟のJ・B・ヘール(ジョン・バクスター・ヘール)も河内長野で伝道の営みに携わっています。この兄弟とご家族も含めてチーム伝道しています。
今日は、目次で言いますと「宣教師志願」の所から、特に、著者が日本に先着する弟のJ・B・ヘールが受けた召命について尋ねてみると記した彼の召命に関係する文章を引用します。召命というのは神様が呼ぶことです。召しとも言いますが、自分に対する神様の呼びかけ、働きかけです。 一八七四(明治七)年の後半のこと、ある金曜日の朝、私はアルゲニー市にある西部神学院のチャペルで行われた宗教研究会の集会に出席していた。私の級友で、後に南米の宣教師になった D・ハズレット氏が、メキシコについて論文を発表したが、その集会中に、私は外国宣教師になることが私の務めであると感じた『A・D・ヘールに学ぶ』(二九頁)。この集会中、ある事を感じるという感性に響いて来る出来事がJ・B・ヘールに起こりました。自分で筋道を立てて考えたという合理的な理屈を立てての思考によるものではありません。外からの、神様からの出来事です。「私は外国宣教師になることが私の務めであると感じた」というのです。彼の言葉を続けますと、私がこの部屋に入った時には、こんな考えを持つとは夢想だにしていなかった。自分が置かれている状況を、頭で、理屈で、考えればはっきりしています。何故ならその時、私は小さいながらも、非常に素晴らしい教会の牧師をしていて、その教会を愛し、終生そこに留まるつもりでいたからである。教会員の愛する一人ひとりの顔が浮かびます。みんな良くやってくれてもいます。この教会は設立三年目。まだまだこれからです。何よりも、これまで神様がこの教会の牧師として私を導いてこられたではありませんか。自分で考えれば、自分の気持ちも、自分で考える理屈も、このままこの教会の牧師でいるのが当然だ、ということになります……。 ところが、そこに外からの働きかけが起こってきてしまった。でも何かの勘違いか思い込みかもしれない。ですから、しかし、この考えが、私の心に浮かんだ時、私はそれを神から来たものかどうかと思い巡らした。このまま教会に留まるのか、外国宣教師として歩むのか。どちらが神様のお考えで、神様は今、どちらに私を導き働きかけておられるのか、思い巡らしました。彼にしてみれば、自分の思いに固執するのは良くない。それは我儘でしかない、そのようなことは分かっている。教会に留まることは私の我儘ではないですよね、神様が導いて来て下さったのですからね、ぐるぐる思い巡らす。
そして、この夜は、私が眠る前に数時間祈った、自分の思いではなく、まして勘違いや思い込みではなくて、あなたの御心は何ですかと尋ね求め、御心を尋ね聴く姿勢で祈る。数時間。そうやって、祈った後で、神が私を召しておられることを知った。先ほどの集会中は外国宣教師になることが私の務めであると「感じた」、そして改めて祈った後は神が私を召しておられると「知った」のでした。
話は飛びますが、今日の招きの詞は 「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている」(ヨハネ一〇・一四)。これは清教学園中高の今年度の標語となっている聖句ですが、良い羊飼いの主イエスが私たち羊を知っていて下さる。有難いことです。羊も羊飼いを知っている訳です。この「知る」というのは、頭で知識を知るというのではありません。心から納得するということです。納得しているから羊は羊飼いの声を知っているのでついていく(ヨハネ一〇・四)。
ところが人間は、良い羊飼いである主イエスに容易にはついていかない。知らないからです。納得していないからでしょう。J・B・ヘールも恐らく、本人にしてみれば、自分がそこに導かれた教会のことを思えば思うほど、宣教教師になるというのは、頭では納得出来ないに違いありません。
旧約聖書に登場するモーセだって召命を受けた時、納得なんか出来ません。「私は何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(出エジプト記三・一一)。預言者に召されたエレミヤもそうです。「あぁ、我が主なる神よ、私は語る言葉を知りません。私は若者にすぎません」(エレミヤ一・六)。どちらも頭で考えれば考えるほど、神様は理不尽なことを仰る。訳分からない、ということになります。当然です。でも、モーセも、エレミヤも、そしてJ・B・ヘールも、神様の召しについて心から納得する訳です。どうやって、彼らは召命を感じ、召命を知って心から納得していくのでしょう。そこで考えてみたいのが、彼が数時間かけて祈ったということです。
そこでパウロの祈りの言葉を味わいたいと思います。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなた方に知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることが出来るようにし、心の目を開いて下さるように(エフェソ一・一七~)。「深く知る」のです。ただ頭で知識を知る のとは異なります。そのためには知識と啓示の霊を与えられて、心の目を開いて戴かなければなりません。そして深く知る内容や悟る内容は、神の招きのことです。そして神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なるものたちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように。また私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれ程大きなものであるか、悟らせて下さるように。ここにある働き、エネルギーという言葉です。どうか神を深く知り、悟らせて下さるように。これがここのパウロの祈りです。 J・B・ヘールも祈りました。神様を深く知って、この召しを悟ることができるようにと。外国宣教、その希望の豊かさを悟らせて下さるように。外国宣教に携わることについて、人間的に言えば、異教の地に赴くより、このままアメリカで仕事をする方がどれほど安心か。言葉も通じない知らない土地でうまくいくだろうか。心配ばかりです。 でも絶大な働きをなさる神の力がどれほど大きなものであるか悟らせて下さい。あなたがエネルギーを注いで下さる。あなたが支え道を開いて下さる。私の我儘な思いではなく、あなたの御心が成りますように。J・B・ヘールは数時間かけて祈り、み言葉によって神の御心を深く知り、この自分に対する神様の働きかけを納得して受け止めた。それで、神が私を召しておられることを知った。私はすぐに我々(カンバーランド長老教会)の伝道局に手紙を書いた。外国宣教が御心と信じます。
今日は旧約聖書からこのみ言葉を読みました。「お前たちの悪い道や堕落した行いによることなく、我が名の故に、私が働きかける時、イスラエルの家よ、お前たちは私が主であることを知るようになる」と主なる神は言われる(エゼキエル二〇・四四)。人間の悪い道や堕落した行いに基づいて神様がその人に働きかけたら、懲らしめられ裁かれることになるでしょう。しかし神様はご自身の名の故に、御心に従って、働きかけて下さる。神様の働きかけです。人間の思いを遥かに超えている。 この神様の働きかけによって明治から大正期の関西の伝道が展開した。河内長野教会が今あるのも、その働きかけのお陰です。もし、ヘール兄弟があの時、自分の思いを通し、アメリカに留まったら、それはそれで良い働きに携わったことでしょうが、ヘール宣教師たちが関わった関西の諸教会もひいては清教学園もなかった訳です。でもヘール兄弟は神様の働きかけに応じるように導かれたのでした。人間の思いを越えた神様の働きかけに感謝したい。