詩編 一・一~三
Ⅰコリント三・六~七
今日は教会創立一一九周年記念礼拝をささげます。河内長野教会の創立者はA・D・ヘール宣教師です。宣教師の仕事は福音を宣べ伝える仕事です。『A・D・ヘールに学ぶ』に拠りますと、彼らは自分たちの業を「教会を植える仕事」と称して、開拓と伝道に専念した。人幾人か定住すれば、その人たちの魂のために、危険も苦労も厭わず、村の中心に教会を据えようと、懸命に働いた(一二頁)。この本の著者は、村の中心に教会を据える、と表現しましたが、ヘール宣教師自身は自分たちの仕事を「教会を植える」と言い表しました。興味深い言い方です。普通は「教会を建てる」と言うことが多いからです。
そこで「植える」という言葉から思い起こした聖句の一つが詩編の御言葉です。主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない(詩編一・二~三)。「教会を植える仕事」と言うなら、教会も丁度、流れのほとりに飢えられた木のようなものです。
皆さんはお芋の苗を植えたことがありますね。それから水田に行くと、稲の苗が植えられて黄緑色の綺麗な苗が並んでいますね。種は蒔くと言いますが、種だって畝を作りそこに小さな穴を掘って、種を蒔いて土をかぶせます。パラッと蒔くというより、種を丁寧に植える感じです。
そこで皆さんに質問です。苗や種を植えたら、苗や種は自分の力でグングン大きく成長していくのでしょうか? 種が自分の力で大きくなる。そう考える人が多いかもしれません……。答えは聖書に書いてあります。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしている内に、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない(マルコ四・二七~)。これを聞くと、やっぱり、「種」が芽を出して成長する、と書いてあるから、答えは種が自分の力で成長するんだ、と思いますね。
でも…、次の節に書いてあることを見てみましょう。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。答えは「土」です。この御言葉をよく味わって考えてみてください。もし種が自分の力で大きく成長していくのだとしたら、土から取り出して、土の中に植えなくても、そこに苗だけ、種だけあれば、大きくなっていくはずです。でもそうはなりません。ちゃんと土に植えられて初めて成長します。
パウロも言いました。私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させて下さる神です(Ⅰコリント三・六~七)。私たちにとっての土は、神様。神様の愛と導きです。
ヘール宣教師は、河内長野の地に教会の苗を植えました。聖霊なる神様が教会を育て成長させてくださいます。そして、私たちはどうかと言いますと、私たち一人ひとりは教会に植えてもらっているのですよ。ですから、私たちは教会から離れてしまったら、成長しません。教会から離れずに福音を聞き、洗礼を受け聖餐に与っていくと、私たちも信仰も成長する。
今日、洗礼式があります。洗礼を授けます。それは洗礼を受けるその人を、その人という苗を教会に植える営みです。実に幸いなことです。ここから成長していきます。