日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年6月2日 説教:森田恭一郎牧師

「キリストの形、きのうも今日も…」

イザヤ 四二・一〇~一七
ヘブライ一三・七~九

パウロは、ガラテヤの教会の人たちに愛情込めて「私の子供たち」と呼びかけました。ガラテヤ教会は、パウロが使徒として伝道し創立、産み出した教会です。そしてもう一度創立するかの如くに「私は、もう一度産もうと苦しんでいます」と思いを込めます。苦しいのですが、ただ苦しんでいるのではありません。産み出される希望の喜びを込めた産みの苦しみです。苦しんででも産み出そうとしているのは教会です。教会とは 「キリストがあなた方の内に造られるまで」(ガラテヤ四・一九)。キリストの形が形造られているのが教会です。今日は招きの言葉にこのパウロの言葉を選びましたが、河内長野教会も「キリストが形造られること」へと招かれていることを今日は確認したいと思います。

 

今日は、昨年度の営みをキリストの御前に報告する決算総会を礼拝後に開きますが、昨年度は教会創立一二〇周年記念に向けて準備を始めました。当初、百年誌の後の二十年間の記録を整える思いで一二〇周年記念誌を残さなければならないとだけ考えていたのですが、落雷があり現会堂の大改修は出来ない事が分かって、改めて会堂のことも含めた教会の将来に向けて、みんなで思いを深めていくべき事へと導かれました。

昨年末の総会で二四年度の活動方針を承認採択致しましたが、その前文では次のように記しました。「私たちは二〇二五年教会創立一二〇周年を記念しようとしています。それはキリストが先導して、キリストの形を河内長野教会に形造っておられると信じるからです。キリストが、私たちを揺さぶり突き動かして、産みの喜びと希望の御業を始めておられます」。説教者の立場から申し上げますと、昨年、教会の将来について考えるにあたって、ガラテヤ書を読み始めて「キリストが形造られる」の御言葉を戴いたのは、昨年度の大きな恵みであったと思っています。

私たち教会は、単なる人間の集まりではありません。主が「恵みにより召された集いで」あり「キリストの体」です。キリストが形造られ、キリストの形へと導かれている。私たちは毎週、私たちの見える河内長野教会の姿を見て教会の様子や教会の姿を認識していますが、ただ現実を認識しているだけではない。見える教会の姿だけをみるなら、人間関係でこじれたり怒りたくなったりすることもあるでしょう。お互いの姿に躓くこともあるでしょう。でも教会は信じるべきものです。すなわち、この河内長野教会に頭なるキリストがおられ、この教会はキリストの体であると信じる訳です。教会を信じる。キリスト教信仰の中で一番難しい所だと思う程です。

 

さて、今日は旧約聖書をイザヤ書から読みました。主なる神様のお言葉です。私は決して声を立てず、黙して、自分を抑えてきた。今、私は子を産む女のようにあえぎ、激しく息を吸い、また息を吐く(イザヤ四二・一四)。ここでは、神様御自身が歴史の中に産みの苦しみをしておられます。何をどのように産み出すのかというと、私は山も丘も廃墟とし、草を全て枯らす。大河を島に変え、湖を干す。目に見えない人を導いて知らない道を行かせ、通ったことのない道を歩かせる。行く手の闇を光に変え、曲がった道を真っ直ぐにする。私はこれらのことを成就させ、見捨てることはない(同一五-一六節)。時代は イスラエルの民がバビロニアに囚われていた捕囚期です。その時、周囲のバビロニアの人々は、偶像に依り頼む者、鋳た像に向かって、あなたたちが私たちの神、と言う者たちだった(同一七節参照)。偶像を拝む異教の宗教に囲まれてイスラエルの人たちも思った。神は声を立てず沈黙したままだ、我らの神なんかいない、と神に疑い信仰を失っていた。信仰の目が見えなくなっていた。その人たちの中には、鋳た像に向かって、あなたたちが私たちの神、と言って異教の神になびいてしまう人たちもいたのでしょう。そのようなイスラエルの民に、神が産みの苦しみをする、と語るのです。

 

これは、神が、お前たちしっかりしなければ駄目ではないか、と叱りつけている、叱咤激励しているというのではありません。神様御自身が世界史の中に御業を為し給う、主は、勇士のように出で立ち、戦士のように熱情を奮い起こし、叫びをあげ、鬨の声をあげ、敵を圧倒される(同一三節)。このことを信じて待ち望むように招いておられます。敵を圧倒されるというのは、滅ぼすという意味合いではなく、イスラエルの神様がおられるのだと異教の民が知っておののく、という意味合いです。その実現のために主の僕、救い主が登場し、主に栄光を帰し、主の栄誉を島々に告げ知らせる(同一二節)ようになる。この神様のご計画が実現していく。イスラエルの民よ、異教の神々に囲まれた中で、ただお前が頑張って信仰しっかり持て、というのではなくて、私がまず御業を成就するから、この私について来なさい、そして君たちがまず、主に栄光を帰し、主の栄誉を島々に告げ知らせるのだ、ということです。そして実際に、歴史の中に、イスラエルの民のエルサレム帰還が成就していくことになります。

河内長野教会の私たちにも、主が御業を為したもう。それを私たちが信じ、希望を持ってついて行けるようにと、とキリストが私たちを先導し、私たちを揺さぶり、突き動かして、産みの喜びと希望の御業を始めておられる、そう確信します。

 

先々週、レジェンド座談会を開きました。戦争中も時代に波に呑まれながらも信仰を保ち続けた信仰の先達のお話を伺いました。キリストが支え、キリストが導き先導して、この地に、信仰の群れを呼び起こし、戦後もまた、歩ませて下さった。

あなた方に神の言葉を語った指導者たちのことを思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい(ヘブライ一三・七~)。ヘブライ書の時代では殉教した指導者たちのことを言っているのでしょう。神様はおられるのかと思いたくなる時代の中にあっても、また殉教しなくても、信仰を以て人生を歩む姿を見倣いたいと思います。そして、どの時代でも、信仰を保つことが出来るのは、私たちが立派な信仰者だから、というのではなくて、イエス・キリストの先立つ導きとお支えがあるからです。イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です(同八節)。このキリストが河内長野教会に、過去一二〇年間も、今日も、これからの今年度も、永遠におられ、歴史の中に導き、キリストを形造って、教会をお建て下さる、そう信じて、私たちも歩み続けていきたいと願います。

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