日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2017年7月30日 説教:森田恭一郎牧師

「いつも喜ぶ?」

イザヤ書61章10~11節
テサロニケの信徒への手紙一5章16節~18節
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです」…と言われても、そういつも喜べるとは限らない。絶えず祈るなんて出来ない。どんな事にも感謝だなんて…と思う。今日は喜び、喜ぶことについて思いを巡らしたい。
イザヤ書61章10節に「私は主によって喜び楽しみ、私の魂は私の神に在って喜び踊る」とあります。ただ「喜び楽しみ、喜び踊る」のと「主によって喜び楽しみ、神に在って喜び踊る」のでは何が違うのか。いつも喜んでなんかいられないと思うとしたら、ただ自分だけで喜ぼうとするからなのではないでしょうか。
そして10節3行目、「救いの衣、恵みの晴れ着」とあります。着るのです。ユニフォームみたいに着る。自分自身はそのままであっても、例えば警察官のユニフォームを着るとシャキッと警察官になる。それと同じように、救いの頃も、恵みの晴れ着を着る。
11節は「大地は草の芽を萌出させるように、恵みと栄誉を芽生えさせて下さる」。衣を着ると、今度は内側から芽生えてくる。身に着いてくる。
喜びは、内側から湧き出してくる喜びに先立って、自分の外から喜ぶべき事柄が生じてきた時に喜べるものです。クリスマスの晩、恐らく喜んでいなかった羊飼いが聴いた天使の言葉はこうでした。「私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった」。イースターの夕方ユダヤ人を恐れて自分たちの家の戸に鍵をかけていた弟子たちの所に主イエスが入って来られて「平和があるように」と仰って手と脇腹をお見せになった時、弟子たちは主を見て喜んだ。羊飼いも弟子たちも何もない所に喜びが自然と湧いて来たというのではない。外からの主イエスの出来事が喜びを以てやって来る、そこから喜びが与えられる。
100匹の羊の譬え話。ルカ15章(p.138)4節以下。いなくなって迷子になっている羊、とても喜べる状況ではない。そこに一生懸命探しにやって来る羊飼いの声が響いてきた。そして見つけ出してくれた。そこに喜びが与えられる。一方99匹の他の羊たち、仲間がいなくなって心配です。でもそのいなくなった羊を連れて羊飼いが戻って来た。そこに喜びが与えられる。
「いなくなったままには絶対させない」という羊飼い側の決意がある。天地創造の前から、このご決意があり、神さま御自身のご決意ですから、必ず成就する。その喜びがある。それを携えてキリストはクリスマスにこの世に到来し、レントのご受難、十字架を経て、イースターには主イエスは弟子たちに現れる。主イエスの前からいなくなった羊である弟子たちを見出して行く。
譬え話を読むと、その羊や他の羊たちの喜びは出て来ない。むしろ見つけたら喜んでその羊を担ぐ程に喜ぶ羊飼いの姿、友達や近所の人々をわざわざ呼び集めて「見失った羊を見つけたので一緒に喜んでください」と言う程の喜ぶ羊飼いの姿、そして主イエスは「大きな喜びが天にある」とまで仰って、羊が想像するのを遥かに超える大きな喜びの光景を語っている。
喜びは自分たちが期待したり願う事柄実現した時に喜ぶのが当然ですが、自分の期待や願いを遥かに越えて、神さまが「絶対、いなくなったままにはさせない」というご決意、それを実現して下さった神様の側の「喜び」を知ったならば、その神様の喜びを自分たちも「喜ぶ」ことが出来る。
クリスマスの晩、あの羊飼いたちが「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせて下さったその出来事を見ようではないか」と手を取り合うようにしてベツレヘムに向かう羊飼いたちの嬉々とした表情。イースターの夕方、主イエスの喜びのお姿を目の当たりにして、弟子たちは喜んだ。それらは自分たちから喜んだのではなく、天使やキリストの喜びを自らの喜びとして、それで喜んだ。
それで、いつも喜ぶことが出来る訳です。
さてⅠテサロニケ書、5章16節以下の個所は14節以下を受けていると言えるでしょう。例えば「気落ちしている者たちを励ましなさい」。励まして元気になってくれれば、こちらも喜べる。うまく行けばいいのですが、うまく行かない場合もある。励ましたつもりが、却って嫌がられたりして、かえってもっと気落ちさせてしまったり、自分が気落ちする結果になったりもする。その時、どうしたらいいか。どうしようもないんです。ただ、神さまに自分が赦してもらうしかない。
月曜日から土曜日の週日の生活の中のいろいろな出来事や課題を引きずるようにして日曜日に礼拝に来る。礼拝で神様の赦しのみ言を聴く。そして月曜日からの生活に出て行く。そして相手の人にも赦してもらうしかない。神さまが慰めて下さる。それしかないではありませんか。そしてそこに出てくる、微かな喜びがある。神さまが慰め励まして下さる。自分も相手もです。その喜びがある。
自ずと喜べるときはそれでいい。むしろ、喜べそうもない時に、向こう側からの喜びをもって喜ぶ。先ほど歌いました讃美歌の21-321番1節の歌詞に「静かな喜び」とあります。大喜びでなくてもいい。うまく行かなくて相手も自分も気落ちしている中ですから、大喜びするような状況ではない。静かな喜び、微かな喜びでいい。でも確かに静かに微かに喜び始めることが出来る。神に赦され相手に赦される喜びです。そうやって、いつも喜ぶのであります。
これはキリスト抜きに喜ぶ喜びではない。キリストあってこその喜びです。だから、先ほどイザヤ書の個所でも申し上げたことですが、5章17節後半「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです」。キリスト・イエスにおいて、赦され、いつも与えられる喜びである訳です。

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