エレミヤ九・二二~二三
ガラテヤ六・一一~一六
パウロは手紙の終わりに自ら大きな字で記しました。まず自らの決意を込めてこの私には、と書き出し、そして強調して私たちの主イエス・キリストの十字架の他に、誇るものが決してあってはなりません(ガラテヤ六・一四)と記しました。
そして、この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです(ガラテヤ六・一四)と記します。口語訳聖書では、この十字架に付けられて、この世は私に対して死に、私もこの世に対して死んでしまったのである、と訳します。
○○に対して死ぬ、という言い方は「関係がなくなった、関係を持たなくなった」ということです。キリストによって、またその十字架によって、また十字架が無駄死にではなかったと示す復活によって、世の中と自分は関係がなくなった。世の中に対して新しい存在になった。それが十字架の出来事の結果、起こっていることだとパウロは記す訳です。
関係がなくなったと言っても、私たちはこの世界に生きている訳ですから、関係を断ち切ることは出来ません。ここで言いたいことは、この世界からの評価を気にして自分が振り回されなくなった、見栄を張る必要がなくなったということです。
昨日の新聞記事(朝日朝刊)に「ルッキズムと向き合う」という記事が載っていました。ルッキズム。ルック、見るという意味ですが、ルッキズムは、見た目を気にする外見至上主義という意味だそうです。SNSの普及でルッキズムは強まっているとのことです。見る方も見られる方も、見た目にとらわれる。どう思われているか評判を過度に気にする。新聞記事は、そうならないために考える、外見評価との向き合い方を論じている三人の人の記事でした。
その内の一人は、ぽっちゃりした人なのですが「あの人太ってる」と陰口が聞こえてきた。夫々輝いていいはずなのにマイナスのイメージは悲しい。外見で人を否定的に見てしまう偏見、あるいは外見的に他人と同調して「普通」を求めてしまう。流行に乗っていると安心する。それに対して、自分の価値は自分で決める。誰かにジャッジされても関係ない、自分が自分の良さを信じていたい。
別の人はこう語ります。例えば、友だちの髪型について「いいね」と言うのは良いが、髪型がイケていないから友だちのコミュニティーに入れないとしたら、それは、外見で不当に排除している。外見を不公正に重視し、差別に繋がるのが批判されるべきだ
三人目の人はこう語ります。美しさへの一元的発想を社会常識として他者に押しつけ、生き辛さをもたらすことに気付かない。人には夫々美意識があり、他者の外見についても思うことは自由。でも、それを本人に伝えたり周囲に言ったりする必要性はあるでしょうか。これは見た目の外見に留まらず、何のことであれ、噂話で人の心を傷つけることに共通で、教会の私たちにも起こり得ることだと思いました。そして最後にこう語ります。自分の身体に対する肯定感や安心感、愛の感覚を守って欲しい。これはもう、自分が相手に対して愛を以て関わっているかという、その人の倫理、生き方を支える愛の問題です。愛の感覚、センスを以て生きることを問いかけています。
私たちは、この世との関係を断ち切って生きることは出来ません。パウロはこの世に対して死んだと言っても、私たちに隠遁生活を勧めている訳ではありません。私たちも同じです。この日本社会の中で、あるいは家庭においてさえ、キリスト教徒として愛のセンスを以て生きる喜びと、なかなか理解されない労苦がある。また、自分自身の中で、主が共にいて下さると思えなくなり、祈っても無駄だなどと思ってしまう。そのように信仰が揺らいでしまうこともある。そのような中で信仰者として生きる。どうしたら良いのか。
パウロが、自分とこの世界の関係は断ち切られたと強調するのは、理由があります。それはパウロが、ガラテヤ教会に問題を起こしている人たちの問題の本質を、世との関係が切れていない所に見出しているからです。自分の行動がどう見られ、評価されるか、そこに振り回されている。評判が自分の主、神さまになってしまっている。ここにガラテヤ教会の課題をパウロは見出しました。
私たちの主イエス・キリストの十字架の他に、誇るものが決してあってはなりません、そうであるはずなのに、キリストの他にも誇るものがある。それはキリストの他に、自分と繋がっているものがあって、それに対して死んでいない、それに振り回されている、ということです。
今日の段落は、四種類の登場人物がいることを知ると理解しやすいです。一番目は律法を厳格に守るユダヤ教徒。ユダヤ国粋主義者とも言える人たち。二番目は、キリスト教に改宗したユダヤ人キリスト教徒。三番目はキリスト教徒になった異邦人たち。二番目と三番目の人たちがガラテヤ教会にいた訳です。四番目の人はパウロです。
パウロから見て、二番目のユダヤ人キリスト教徒たちは、キリスト以外のものを誇る人たちでした。キリストを信じるだけでは足りない。律法も守らねばならない。結局キリストの十字架の福音を軽んじてしまいました。ただ軽んじた以上に、意図して、キリストの福音を覆そうとして(ガラテヤ一・六~)しまいました。何故、キリストの恵みへと招いて下さった方からこんなにも早く離れてしまったのか、その事情をパウロは語ります。
そのユダヤ人キリスト教徒たちは、肉において人(=ユダヤ教徒)からよく思われたがっている人たち (ガラテヤ六・一二~)でした。これはルッキズムに縛られていることですね。律法を守らねばならない、それを純粋に心から信じているのではなく、ユダヤ教の国粋主義者の人たちからよく思われたい。それが彼らが律法を強調する動機です。
そして、律法を強調せずにキリストの福音のみを語ると、ただ、キリストの十字架の故に迫害されてしまう、だから迫害されたくないばかりに、律法を強調する。二番目のキリスト教に改宗したユダヤ人たちは、当時、律法を絶対命令のように考える一番目のユダヤ教の人たちから迫害されたようなのです。それでキリスト教徒になっても律法は守ってますよ、という見せるためのパフォーマンスを示す必要があった。
それで、二番目の人たちは、三番目の教会内のキリスト教徒になった異邦人たちにも、無理やり割礼を受けさせようとして、ということになった。割礼はユダヤ教徒になるための儀式、ユダヤ教徒であることのしるしでした。自分たちはガラテヤの教会の人たちに割礼を受けさせていますよ、私たちはちゃんと律法を守っていますよ、と成果を誇る。そうやって、自分たちの肉について誇りたいために割礼を受けさせようとしている。自分たちを誇るため、迫害を受けたくないから割礼を受けさせようとする。それは相手の人たちの救いのためではない。そこに愛のセンスはない。
パウロはその動機を見抜いている。キリスト教会なのにユダヤ教との関係を引きずっている。それでは、キリスト教会を建て、キリストの形を形造ることは出来ない。それはキリスト教会をいわばユダヤ教会にしてしまうような、キリスト教会を破壊するカルト的行為でした。
それで、四番目のパウロが強調するのが、私には、私たちの主イエス・キリストの十字架の他に、誇るものが決してあってはなりません。十字架のキリストによって、私は世に対してはりつけにされている。世に対して死んだ。そして新しい自分になったのだ、と四番目のパウロ自身の姿を明らかにして、二番目のユダヤ人キリスト教徒と比較して、キリスト教徒であるとはどういうことかを三番目の異邦人キリスト教に語る訳です。
時に信仰が揺らぐ私たちです。評判を気にしてしまいます。噂をたてる側に立ってしまうこともある。でもだからこそ私たちは、この世がどう思おうと、相手がどう思おうと、自分が揺らぐとき、愛のセンスを以て生きる方向を大切にして歩みたい。神はエレミヤに語りかけました。誇るものはこの事を誇るがよい。目覚めて私を知ることを。私こそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事。その事を私は喜ぶ(エレミヤ九・二三)。神御自身が慈しみの業を行う事を喜び、かつ、信仰者が慈しみを行う事を神様が喜ぶ。
私たちはキリストに結ばれて、神に対して生きている(ローマ六・一一)者です。生きる全ての場面で、その都度、新たに十字架を誇って生きる。敢えてキリストの十字架を誇る、何故なら私たちは、十字架のキリストの故に、自分も相手も新しく造られた者だからです。揺らぐ私たちを神様は掴んで離さない。神様の側に揺らぎはない。キリストが十字架にかかって下さったのですから。その十字架が無駄になることはありません。信仰の確かさは自分の側にではなく、キリストの側、キリストの十字架にあります。十字架を誇ればいい。