イザヤ書59章15b~17節
テサロニケの信徒への手紙一5章7節~11節
今日は出来事と意味について区別しつつ味わいたいと思います。まず出来事とうことで今日の聖書箇所の中で目を留めたいのは10節の「主は、私たちのために死なれました」。この中でも出来事そのものは「主は、死なれました」ということです。敬語の言い回しを省くと「イエスが死んだ」。歴史の中で、紀元30年頃、ゴルゴタの丘で、ポンテオピラトの裁判の結果、イエスという男が十字架に付けられて死んだ。これは信仰がなくてもその出来事を見れば誰でも認識できることです。高校の社会科の教科書にも掲載され得るような歴史上の、そして言ってみれば小さな出来事でした。
しかしこの出来事が、今日の聖書箇所で限って言いますと、7節~11節の他の全ての言葉の根拠になっている。今日は順々に読んでいきましょう。
7節「眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います」。今日たまたま、「朝の道しるべ」小島誠志牧師の聖句断想の、7月2日の所を読みましたらこうありました。まず詩篇36篇6-7節の引用があります。「私はまた目覚めます。主が支えていて下さいます。いかに多くの民に包囲されても、決して恐れません」。そして、先生の黙想の言葉が続きます。「神を信じる者は眠ります。敵に反撃し倒すというのではなく、敵をも支配しておられる方を信じ、委ねて眠ります。「眠り…また、目覚める」悠然たる日常の外側で、敵の包囲は、次第に崩れていきます」。7節に戻りますと「眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います」。悠然と委ねて眠ります。酒に酔うというのは文字通りの飲酒だけに理解する必要はないでしょう。酒に酔って、何か大言壮語になったり、逆に自暴自棄なったり、神を見失い、自分の姿に酔いしれたり、周囲に振り回されたりするさまを表現しています。悠然と委ねて眠ればいいのです。何故こう断言出来るのか。「主が私たちのために死なれたからです」。
そして8節「しかし、私たちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」。目を覚まして、花婿の前に、キリストの前に立ちます。それが昼に属していることです。例えとして「胸当て」や「兜」が出てきます。もし戦場で武器もなく、防護服もないなら、不安でたまらないでしょう。敵に反撃し倒すまでしないにしても、私たちが日常生活で「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶる」ことが出来るのは、思えば安心です。身を慎むというのは道徳的な慎みというより、振り回されない様子を語っています。日常生活で生じてくる様々な出来事に、もちろんしっかりと対処していかねばなりませんが、信仰・愛・希望の防具があれば、振り回されないで落ち着いて対処できます。何気ない言葉ですが、これは私たち信仰者にとっては強みです。何故こう断言出来るのか。「主が私たちのために死なれたからです」。
9節「神は、私たちを怒りに定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによる救いに与らせるように定められたのです」。皆さん、この言葉、自信を以てしっかりと言いましょうね。何か困難に遭遇してしまった時、神の怒りの故にこうなったのではない。自分の命がステージⅣになっていて余命もそう長くはないという状況の中で「神は、私たちを怒りに定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによる救いに与らせるように定められた」。しっかりと告白しましょう。何故こう断言出来るのか。「主が私たちのために死なれたからです」。主が、私たちの代わりに怒りを御自身に負われたからです。
そして10節「主は、私たちのために死なれました」の後の所、「それは、私たちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」。「眠り…また、目覚める」悠然たる日常の営みの中で、私たちは「主と共に生きるようになる」。皆さん、主と共に生きておられますか? もしかすとそうでない時があるかもしれない。酔ってしまって主から離れてフラフラとふらついて歩んでいる。でも主は皆さんと共におられますね。だから目を覚まして私たちも「主と共に生きる」。何故こう断言出来るのか。「主が私たちのために死なれたからです」。
以上、申し上げてきましたことを、出来事と意味の関係と言うことが出来ます。「イエスが死なれた」。一見、誰もが無視し忘却の彼方に忘れてしまいそうな、沢山の出来事の小さな出来事が、聖霊の導きによって俄然、とてつもなく大きな、深い意味を持っていることに気付かされる。
神は、私たちを怒りに定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによる救いに与らせるように定められたのです! 信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、振り回されることなく慎んでいることが出来るのも、私たちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きることが出来るのも「主が私たちのために死なれた」たった一つのしかし実に尊い出来事の故です。
そしてそれだから、私たちの生き方が、11節「ですから、あなた方は、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」という前向きな、しかもお互いの生き方に展開していく。この11節については次週12節以下の所で、味わっていきたいと思います。
今日の説教は、何か特別に、御言葉を説き明かしたというより、何だか聖句を味わっただけというような感想もあろうかと思いますが、それだけに、主が死なれた、私たちのために体を割かれた、血を流されたという出来事が、信仰の深い意味を以て、私たちを包んでいることを体感するのであります。