イザヤ四五・二~七
ガラテヤ四・八~一一
大晦日です。教会は今年も礼拝をささげ主の御名をたたえ、また皆様のご奉仕によりその活動を続けてくることが出来ました。感謝です。今日の説教題を「立ち帰ること、逆戻りすること」としましたが、今年は一二〇周年記念に向けて、改めて、立ち帰ることを意識することとなりました。1教会とその働きは何のためにあるのか。それは 「神の栄光のために」。
2どのような教会でありたいか。それは「行って
みたい、また来てみたい河内長野教会」。
3そのためにどのような河内長野教会のかたちを
造ろうとしているのか。それは「共に御業に仕 え、支え合う教会」。そのために教会の組織や 長老会の役割とは何か、といったことも立ち帰るべき所を確認していきます。
4今年改めて気付いたことは、一二〇年の歴史が 地域の信頼あっての歴史であったこと、それ故、教会の営みも「地域の信頼に応えて」の営みでありたいということでした。
このように立ち帰る、原点に立ち帰るとよく言いますが、原点を言葉にして表現出来ることは幸いなことだと思います。一二〇周年を何故記念するのかということも、分かりやすい言葉が見つかるといいですね。来年は、一二〇周年を何故記念するのか、絶えずそこに立ち帰り確認していく営みになっていくのではないかと思います。長老会でまだ共有はしていないのですが例えば「次世代に向けて教会を建てるため」です。一二〇周年を記念するのはただ過去を振り返るのではなく、むしろ将来を展望する営みになっていかねばなりません。原点に立ち帰るのは過去に戻ることではなく、将来に向けて正しく立ち向かうためです。
パウロがガラテヤ教会の人たちに対して なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか(ガラテヤ四・九)と心配をしています。キリストの恵みによってのみ救われるという福音理解が揺らいで、律法も守らなければ救われないと言い出したからです。
河内長野教会が福音理解で逆戻りすることはないと思います。でも、無力で頼りにならない支配する諸霊は、救いにとっては無力なのですが、私たちの日々の生活には強力です。スマートフォンのゲームからなかなか手が離れない、何を大切にして生活しているのか、これも現代社会の諸霊の支配の力です。ですから、その支配に負けないためには、信じる者全てに救いをもたらす神の力(ローマ一・一六)である「福音に立ち帰り続ける」ことが必要です。とにかく礼拝に出席して福音を聞き続けることが肝要です。一回くらい休んでも平気、神様を知っているから、と自分は福音を分かっているつもりになって他のことを優先しているといつのまにか足を絡み取られかねません。
パウロは、今は、神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに(ガラテヤ四・九)とっ語ります。安心出来る言葉です。神様のことを自分が知っているつもりでいることに信仰の確かさがあるのではない。むしろ神様に知られていることに信仰の確かさがあるからです。
今日の旧約聖書、イザヤ書(四五・二~七)。イスラエルは神を知らないままだったと告げます。私はあなたの名を呼び、称号を与えたが、あなたは知らなかった。私はあなたに力を与えたがあなたは知らなかった(四五・四、五)。そして神様の絶対的な主権を語ります。日の昇る所から日の沈む所まで、人々は知るようになる。私の他は空しいものだ。私が主、他にはいない。光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。私が主、これらのことをするものである(四五・六、七)。
闇や災いを創造するとはどういうことか? これらのものは人間の罪が産み出す者ではないか。紛争や争いも、神様がおられるのになぜこうなるのか、とあたかも神様のせいで争いが続いているように考えるのはおかしい。あくまでも人間のせいです。ただ、経験的に色々な災いを神様がもたらして下さったのだと思うことはありますね。例えば、放蕩息子の譬え話、その息子が成長して父の元から家を出て行ってしまいます。その先で、ひどい飢饉に遭います。飢饉そのものは自然現象ですが、あの飢饉をきっかけに、彼は父親の元に向かうことになり、父の愛に気付かされることになります。それは、彼の成長の過程で逆戻りではなく息子であることの原点に立ち帰った訳です。その意味ではあの飢饉は有益でした。
災いを、あたかも神様がその初めから予定しておられたように思えることもあるでしょうし、人間の犯した悪いことを神様が後から善き事に変えて下さったと振り返られる(創世記四五・七、五〇・二〇参照)こともあることでしょう。
今年、皆様も振り返れば、色々あったとことと思います。教会も例えば落雷があって、被害を受け、皆様にもご迷惑をおかけしております。そしてそのことを通して、将来に向けて教会が考えねばならないことを指し示されています。そのことに長老会は気付かされたのです。それは次に出る「教会便り」に掲載しますが、あの落雷もその意味では恵みであったとさえ言い得る訳です。神様は私たちに必要なものを既に知っておられます。
過ぐる一年の恵みを見出しながら、それを携え、導きを信じて、来年の営みへと展開して行きたいものです。