マタイ 一・二三
マタイ一八・一〇~一四
先ほどクリスマスの讃美歌を歌いました。随分、季節外れだなと思われた方もおられることでしょう。第二週は教会学校のカリキュラムに合わせていますが、それが今日は使徒信条からクリスマスの部分を扱っているので、マタイ一章のクリスマスの箇所となりました。そして今日は、クリスマスの御子のご降誕よりも、その意味としての 「インマヌエル=神は我々と共におられる」(マタイ一・二三) ということについて思いを深めます。
そこで今日は、クリスマスの記事ではない「百匹の羊の譬え」から、神さまが私と共におられることについて思いを深めたいと思います。
主イエスがこう語り始めます(マタイ一八・一〇)。これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。そして譬え話です。ある人が羊を百匹持っていて…。ここに百匹の羊たち、そして羊飼い、それから恐らく牧羊犬、犬がいます。狼が来たときに追い払たり、群れからはぐれないように羊を群れに戻す役割を担う犬です。
ところで犬のことを英語でドッグと言います。英語では一匹の単数形と二匹以上の複数形があって何匹かの犬が居ればドッグズといます。猫は英語でキャットと言いますね。二匹以上居るとキャッツになります。狼はウルフ。二匹以上でウルヴズ。区別があります。羊は英語でシープと言います。それでは二匹以上いると何て言うか知っていますか。シープスとは言わない、で、シープ。同じです。単複同形です。何故か? 羊は一匹で行動しない。いつも群れでいるので群れの中に百匹居ても一つの群れなので、シープです。
そのことを思うと、羊が一匹でいるのは普通ではない訳です。ところが実際には群れから離れてしまうことがやはりあるようです。その様子を先ほど皆さんが歌いました讃美歌二〇〇番が可愛らしく歌詞にしています。
♪小さいひつじが いえをはなれ、
ある日とおくへ あそびにいき、
花さく野はらの おもしろさに、
かえるみちさえ わすれました(1節)。
一匹だけになってしまいました。そのことに気が付かず、自分が群れの中にいないといけないことがまだ分かっていないようです。すると……。
♪けれどもやがて よるになると、
あたりはくらく さびしくなり、
うちがこいしく、ひつじはいま、
声もかなしく ないています(2節)。
ここに居るのは自分一匹だけだとやっと気が付いて、寂しくて悲しくなってしまいました。ここで問題は一匹だけになってただ寂しいということだけですか? そう。狼が来て食べられてしまうかもしれない。命が危ない。この弱い羊はまだ小さくてこの危険性を分かっていません。分かっているのは羊飼いです。だから羊飼いはどうしますか。
♪なさけのふかい ひつじかいは、
このこひつじの あとをたずね、
とおくのやまやま、たにそこまで、
まいごのひつじを さがしました(3節)。
どこにいる? メー。あ、いた。良かった、ようやく見つけることが出来ました。子羊も呼びかけに対して返事が出来て良かったです。
♪とうとうやさしい ひつじかいは
まいごのひつじを みつけました。
だかれてかえる このひつじは、
よろこばしさに おどりました(4節)。
この子羊、これほど嬉しいと思ったことなかったでしょうね。本当に安心出来ました。子羊は分かりました。羊飼いが一緒に、共にいてくれて嬉しかった。そして家(うち)に帰ると群れの中に戻って他の羊と一緒のいる事が出来て本当に良かった。
さて、私たち人間は、羊ではないから、大人になれば一人でやっていけるから、羊と共にいてくれる羊飼いがいなくてもいいのでしょうか? 私たちを独りぼっちにしないように群れにしてくれる羊飼いは、要らないのでしょうか。
聖書はこう言っています。そのとき、彼らは私が彼らと共にいる主なる神であり、彼らはわが民イスラエルの家であることを知るようになる、と主なる神は言われる(エゼキエル書三四・三〇~)。共にいて下さる主なる神様だから、そして神様が我が民、と言って下さる私たちなのですから、私たちも神様と共にいることを大切にします。このことを大切にしているのが神様の民です。
しかも民だから独りではありません。「お前たちは私の群れ、私の牧草地の群れである。お前たちは人間であり、私はお前たちの神である」と主なる神は言われる。私たちは人間ですよね。人間ってどう書きますか。人と人との間にあるのが人間。私たち人間は独りぼっちで生きるようにはなっていません。そして民の居場所が教会です。
神様は私たちを、神の民、そして人間として見てくれているのですが、私たちの方が、神様なんて要らないって、時々思ってしまう。あの子羊がお花畑の方が楽しい、お花畑にいるのならこっちで一人でも大丈夫、と思ってしまったようにです。
それで大事なことは、もし私たちが羊飼いなしでも大丈夫と思っても、神様の方は、お前たちなんていなくてもいいよと、は思わないということです。あの子羊の讃美歌、終わりの所で「抱かれて帰るこの羊は、喜ばしさに躍りました」でしたね。でも、それ以上に喜んでいるのは羊飼いだということです。だから羊飼いは共にいようとしてくれる、訳です。愛の故にです。
ルカ福音書の譬え話では、おうちに戻ってから羊飼いは友達や近所の人々を呼び集めて「見失った羊を見つけたので一緒に喜んで下さい」(一五・六) とみんなでお祝いする程に喜んでいます。
だからこの讃美歌、もう一節、羊飼いの喜びを歌う歌詞があるといいと思います。それでもう一節、作ってみました。
♪小さな羊を 連れて帰り、
みんなに呼びかけ、おいわいします。
見つけて喜ぶ 羊飼いは、
われらと共に おられる主イエス。