マタイ六・七~一三
ユダ 二五
今日の主題は主の祈りです。「天にまします我らの父よ」で始まる主の祈りです。みんな祈っている祈りでよく知っていますね。
主の祈りは、主イエスが教えて下さった祈り、同時に主イエスご自身が祈っておられた祈りでもあるので「主の祈り」と呼ばれています。朝早くまだ暗い内に、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた(マルコ一・三五)。イエス様は色々祈られたでしょうが、その祈りの核になる部分は主の祈りと重なっていたことでしょう。だからこそ私たちにも教えて下さった。くどくどと言葉数多く祈ればよいのではなく、祈りの核というものがあるのだ、と教えて下さった。
天にまします我らの父よ、と親しく神様に呼びかけて願い事の最初に何を祈るか。御名をあがめさせたまえです。それに対し私たちの祈りは、どのような願いを祈り始めるだろうか。試験前の生徒や学生だったら「少しでも点数採れて合格しますように」と祈るでしょう。お店を経営している人なら「お客さんが一人でも多く来てくれますように」と祈るでしょう。病気を抱えている人なら、「病気が治って健康になれますように」と祈るでしょう。これらの祈りは、みんな自分のことです。家族や友だちのことを祈る、世界の平和を覚えて祈ることもありますが、大きく言えば自分たちのことです。でもそれが駄目だというのではありません。祈り願っていい。でもそれで終わらない。 その点、主の祈りは、父よと神様に呼びかけた後の最初に願いは、御名をあがめさせたまえです。それから主の祈りのお終いは、国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。やはり神様をあがめる祈りです。このお終いの祈りは、マタイ福音書でイエス様が教えて下さった祈りの言葉にはありません。後の初代教会の人たちが付け加えた言葉です。教えられた通りに祈った後、お終いはやはり神様、イエス様をたたえずにはいられなかった。ユダの手紙もこの二五節、終わりの部分でキリストをたたえます。イエス様だって初代教会だって苦しさの連続だった。でも初代教会の人たちは、お終いの所に神様をほめたたえる言葉を付け加えた。何故だろう? それが今日の主題です。
あがめるというのは、たたえることです。私たちもたたえることがあります。例えば、野球でもサッカーでも優勝チームをたたえます。負けたチームでも頑張ったねとたたえます。拍手します。たたえる時って気持ちいいですね。主の祈りも、神様、頑張りましたねと拍手しているんです。 では神様が何を頑張り、なんで神様をたたえるのだろう。それは救い主として頑張ってくれたからです。私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が永遠の昔から、今も、永遠にいつまでもありますように。アーメン(ユダ二五)。十字架にまでかかって私たちの罪を負って下さった。それで「イエス様、私のために頑張って下さって有難う」とたたえる。それは優勝チームをたたえる時のように、本当は気持ち良いです。嬉しい。神様をたたえることが、人間の最大の幸せなんです。御名をあがめる、国と力と栄とは限りなく神様のもの、あるいは、神に栄光を帰す、神様は素晴らしい、言い方は様々ですが、神様をたたえずにはいられない。人生の喜びです。それが人生の目標だと言ってもいい位です。
一昨日、清教学園高校一年生の礼拝で、清水先生がお話し下さいました。福音書から、舟の中で眠っておられた主イエスが嵐の中で風や波を静かにさせた箇所です。そこで先生はご自分のことを紹介されました。自分は第一希望の公立高校が不合格になり、清教学園に入学した。公立高校合格を願い求めてきたのに、それを神様は叶えて下さらなかった。なんでこんなことになるのかと思った。でも清教学園に入り、その後導かれてタンザニアの宣教師として仕え、今は日本で牧師として働き、清教学園でも聖書の授業を担当している。あの時公立高校に行っていたらこうはならなかっただろう、ここに来て良かった。神様、有難うと神様をたたえている。思えば、嵐の困難の中にも主イエスがおられるのだ、というお話でした。
思えば、相手をたたえる時って、こちらが調子のいい時とは限らない。むしろ困難の中にある時です。相手をたたえながら元気をもらうからです。イエス様をたたえる。それで困難の中にあっても元気を戴いています。それで主の祈りの願いの初めと終わりは、たたえる祈りで枠づけられている。