日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2023年5月28日 説教:森田恭一郎牧師

「相互の交わり、地域の関わり」

イザヤ 四二・五~七
使徒言行録二・四二~四七

本日は教会暦ではペンテコステ(聖霊降臨日)です。クリスマス、イースターと共にキリスト教三大祝日の一つです。皆さん、ペンテコステおめでとうございます。

使徒言行録はペンテコステの出来事をこう記しています。突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上に留まった。すると、一同は聖霊に満たされ〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した(使徒言行録二・二~三)。一人ひとりの上に聖霊が留まった。この留まるという言葉は、神が、キリストを神の右の座に着かせられる(エフェソ一・二〇) という用語と同じです。主イエスが天に挙げられ神の右の座に着かれて、弟子たちの前からお姿が見えなくなった。でも、それと表裏一体のこととして、聖霊が一同一人ひとりに留まった。私たちは独りぼっちではなく、聖霊なる神様が共にいて下さる訳です。

そしてこの日の出来事の結果として、教会が誕生した。聖霊降臨日は教会の誕生日です。その教会の営みをこう記します。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは使徒の教え、パンを裂くこと、相互の交わり、祈ることに熱心であった(使徒言行録二・四一~)。人々は使徒ペトロの言葉を受け入れ(=信仰の告白をし)、洗礼を受け、繰り返し使徒の言葉(=教会の説教)に耳を傾け、相互の交わり、パンを裂くこと(=聖餐式)、祈ることに熱心であった。教会本来の営みがここに明らかになっている、と言えるでしょう。

さて、使徒信条を順々に味わっていますが、今日は「聖徒の交わりを信ず」の箇所です。この言葉は文法上の話になりますが、中性名詞、男性名詞どちらでも読めると説明されます。中性名詞で聖なる事柄の交わりと訳して理解しますと、例えば聖餐において私たちは聖なる事柄に与っていると言えます。また男性名詞で理解しますと、使徒信条が記しますように聖徒の交わり、人の交わりとなります。先程の教会の営みの言葉で言いますと「相互の交わり」が聖徒の交わりに当たると言えるでしょう。どちらが正しいかと言うよりも、聖餐に於いて聖なる事柄に与る聖徒たちの交わりと両方含めて考えればよいでしょう。

そして共に聖餐の恵に与る聖徒とは私たちのことです。キリスト教信者です。今、共にここにいる教会員同士を思い浮かべることが出来ます。世界中にいる信仰の仲間たち、時代を超えてペトロや初代教会以来の信仰の先輩たち、つまり既に亡くなられた信仰の先達の方たち、更には救い主を待望した旧約の信仰者たちも含めて、みんな聖徒であり、私たちもここに加えられ、時と所を越えて、みんな共に聖餐の恵に与り神を賛美している。この聖徒の交わりを信じることが出来る訳です。教会の歴史は本来、福音を聴き、聖餐の恵に与り、神を賛美する聖徒の交わりに於いて形成されるものです。時と所を越えた壮大な聖徒の交わりの世界があり、その一員とされている私たちが現実に相互の交わり、相互牧会をするのは、時と所を一緒に生きている私たちなのだということです。

ところで、今日はこの後に教会総会、決算総会を開催します。過ぐる一年間の活動、そのために用いた決算の報告を、キリストの御前に報告します。コロナ感染症が未だ収まらない中にあっても、礼拝をささげ、相互牧会の営みを、皆さんが参加下さって続けることが出来ました。聖霊のお支え合ってのことと感謝をささげたい。        そして今日はそれと共に、決議事項ではありませんが、長老会は一つの提案をします。教会創立一二〇周年に向けての私たちの思いを整えたいと願っています。これまでの歴史をどういう視点から捉え、これからの教会の営みをどういう視点から展望し、夢幻を描くのか、ということです。

それで……、この視点をこう提案します。「地域の信頼に応えて」。この地域は、キリシタンの人たちがいた地域です。その後の為政者たちの弾圧や迫害によって歴史から消えましたが、そのDNAや痕跡は残っている。その時以来、キリスト教に対する地域の信頼があって、その後の河内長野教会が受け入れられてきた。河内長野教会の営みは、関連施設の営みも含めて、地域からの信頼あってこその営みであり、その信頼に応えての営みであり、これからもそういう営みであるということです。この視点から歴史を振り返り、これからの夢幻を描こうという提案です。

この提案を心に留めながら、今日の旧約聖書に思いを向けます。主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生ずるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩む者に霊を与えられる(イザヤ四二・五)。イザヤ書のこの聖句が語る聖霊降臨です。そしてイスラエルは霊を与えられるのですが、それは次に展開します。主である私は、恵みを以てあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形造り、あなたを立てた (イザヤ四二・六)。イスラエルは、民の契約、諸国の光となるために造られ霊を与えられた。自分が救われて良かった、で終わるのではない。その使命がある。契約。それは真の神が我らの神となり、我らが神の民とされた。神と人との関係を造る契約を神が結んで下さった。この救いの事実を証しし、それによってイスラエルが諸国の光となる。この使命がイスラエルにはある訳です。

ここにはイスラエルの側から諸国、地域へという方向性があります。教会もまた、地域に対して福音を証ししていく使命があります。でも、逆の方向性もあることを忘れてはいけません。

今日の新約聖書に思いを向けたいと思います。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心を以て一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた(使徒言行録二・四六~)。注目したいのは、民衆全体から好意を寄せられた。民衆全体を地域と理解したらどうでしょう。また好意は元々喜びという意味ですが、ここでは信頼と理解すれば、地域全体から信頼を寄せられた。方向性は地域から教会へとなります。

初代教会も、イスラエルと同じく、聖霊を与えられて民の契約、諸国の光としての使命を与えられた。イエス・キリストの福音を地域に向けて証しした。それに地域の人たちも応えて、教会に好意を寄せ信頼した。それに教会が応える。相互に信頼に応える好循環が起こる。

私たち河内長野教会も礼拝と伝道に携わり、また関連施設も、教育、福祉の各々働きを通して、民の契約の福音を証しし、諸国の光として自らを現していきます。もちろん人間の営みでありますから、その都度、罪を贖っていただき、聖霊によって方向性を導かれる必要があります。そうやって地域の社会と皆さんに喜ばれ信頼されるものとして歩みます。この好循環の営みが私たちの歴史の営みです。この視点を私たちは共有します。その結果、こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである(使徒言行録二・四七)と使徒言行録が主の御業をほめたたえている記事が私たちにも成就していきます。

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